あなたは「幸せ」ですか、と尋ねられたらどう答えますか。そう簡単にはこたえられないですね。ここで「幸せ」ということを分かりやすくするために、その反対のこと「不幸せ」について少し考えてみましょう。「不幸せ」とはどんな状態のことをいうのでしょうか? 分かりやすく言うと、「悲しみ」の状態とき、「痛み」の中にあるとき、そして「苦しみ」にあっているときのことを言いますね。これらの「悲しみ」「痛み」「苦しみ」は体と心の両面があります。
怪我をして痛い、食べ過ぎてお腹が苦しい、これらは時間が経つと良くなります。解決します。しかし、心の悲しみ、心の痛み、心の苦しみはそう簡単には解決しません。どうしたら、解決するのでしょうか?
私は永い間、誰にも話せない心の痛みを抱えていました。それは私が小学校に入る前くらいのときだったと思います。隣の家の田中君と他に何人かの友達といつものように遊んでいました。追っかけっこをしていた時のことです。防火用水のプールがあって、子供が入って事故がないようにその周りを鉄条網で囲っていました。そこで走りながらたまたま田中君の体と私の体が触れ合い、そのはずみで私の唇が尖った鉄条網に触れ、数針縫う傷を負ったのです。大量の出血に驚いた私は、泣きながら「田中君が押したのでこうなった」と大人に訴えたのです。
私は母に連れられて病院に行って治療をうけ帰ってきました。田中君のお父さんが勤めから帰ってきました。田中君のお父さんは、スパルタ教育をする人でした。スパルタ教育というのは、子供に体罰を与えて教育するというやり方です。私の怪我の原因を知った田中君のお父さんは、問答無用とばかりに田中君の首根っこを掴まえて、水道の蛇口からいっぱいの水を浴びせ3、4メートル先に放り投げました。私はその光景の一部始終を近くで見ていたのです。
たしかに私と田中君とがぶつかったはずみで突発事故になったのですが、子供ながらに自分を弁護するつもりで言ったのか、田中君を悪者にしてしまったのです。田中君は何も悪いことをしていません。いつものように遊んでいてたまたま私が怪我をしただけだったのです。それなのに私が、田中君が悪いことをしたかのように言い張ったものですから、田中君はひどい仕打ちを受けたのです。
私はそのことを思い出す度に、心が痛みました。なぜあのとき、田中君が押したから怪我をしたと言ったのだろうか。田中君は仲良しの友達で憎んだり恨んだりしたことがなかったのに、なぜあんなことを言ってしまったのか、ずーと後悔してきました。
けれども、この心の悩みは、両親にも、兄弟にも、友達にも、誰にも話せませんでした。その心の痛みから解放されたのは、ずーと後の五十数年後のことです。クリスチャンになってから、田中君を悪者にしてしまったことを心から悔い改めました。主イエス様が、そのことを聞いてくださり、「もう悩まなくていい、苦しまなくていい、お前のかわりに私が悩み、そして苦しんだから、もういい」と言ってくださったのです。それから、私の心の痛みがすーと消えてなくなったのでした。
人間は誰でも過ちを犯します。そのときに誰にも相談出来ないことを、主イエス様だけには相談することができます。私たちの本当の友は主イエス様だけです。主イエス様は、私たちの悩みや苦しみを聴いてくださり、心の平安となぐさめを与えてくださいます。そのときに、はじめて私たちは「幸せ」な気持ちになれるのです。
2014.5.11 岩橋隆二