説教題 「前のものに向かって」 聖 書ピリピ3章13節~14節久原榮實子
今日、私たちが新しく戴く聖書のみ言葉、先ほど読んで戴きましたピリピ人への手紙は、使徒パウロ書簡の5番目に書かれた書簡だとされています。もうこれ以上の大使徒は出ないだろうといわれているパウロ先生の獄中書簡であり、喜びの書簡だと言われるものです。
1節から11節は、「キリストを信じるとは」とは、どのような事なのかを記し、12節から21節は「目標を目指して」自分は歩いている。あなたたちも、そのように歩いて欲しいと、涙ながらに訴えています。
13節「ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを延ばしつつ」を、新共同訳聖書は「なすべきことはただ一つ、後ろの者を忘れ、前のものに全身を向けつつ」と記しています。この「後ろのものを忘れる」ということは、どう言う事なのかをルカ9章62節はこのように記しています。「手にすきをかけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくない」と言うのです。
パウロ先生は、ピリピの人達にあてたこの手紙でも、3章17節から18節「兄弟たちよ、私にならう者になってほしい。今、また涙を流して語る」と言っておられます。「また」とありますから、前にも涙を流して語っておられたのでしょう。この地上の事ではなく、天の事を思いなさい。私達の国籍は天にあるのだからと。
3章13節、「キリストに捕らえられたから、ただこの一事を努めている。すなわち、後のものは忘れ、前のものに向かって、からだを延ばしつつ、目標を目指して走っている。」(からだを延ばして)、これは心だけではない全身で前に向かっていると言う事です。
主イエス様は言われました。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従いなさい。」自分を捨てると言う事は、本当に1日1日自分を捨てる、昨日は昨日で終わり、今日も今日で終わり、明日は又新しい1日を生きると言う事です。自分の思い・考え・やってきた事、たとえそれが神様の為にと熱心にやってきた事でも、神様が捨てよと言われたら、「はい」と言って、後ろを振り向かない。鋤に手をかけて、後ろを振り向かないのです。もう次の種をまく準備が始まっているのです。
自分を捨てるという事は、ある意味、苦しむことですあるかも知れません。静かに忍耐して、また神様に服従して忍ぶ時なのです。私達は、苦しむことによって、力を蓄えられていくのです。そして、その時、私はあなたと共にいるよ、あなたを助けるよと言われる神様に出会わされてゆきます。
神様にあっては、過去と現在がどうであっても良いのです。神様がこれから良い事をして下さるのです。過去を振り向く者は時間の奴隷となり、未来を見る者は時間の主人となる、という言葉があります。
聖書の時間の流れは、未来から過去に流れてくる、と考えられています。神の国はそうです。自分達が過去に何か立派な事を熱心にやってきたから、神の国があるのではない。神の国は、上から天から神様からやって来るのです。
自分の犯した間違いも、出来なかった事も出来た事も、1日1日は捨て、1日1日新しく神様も生命に満たされて生きる1年となりますようにと、まず私自身向かって語っています。