2016.12.24説教要旨(イブ賛美礼拝) 題:「完全にささげる生き方」
聖書:マタイ1:18~25
牧師 岩橋 隆二
クリスマスのこの時期、以前ノーベル平和賞をうけたマザー・テレサのことを覚えます。そして彼女が亡くなった時に残されていたものは、擦り切れたカーディガンとサンダルと下着だけだったということが、とても印象的です。マザー・テレサの一生は、暗闇の中に震えている人のそばに寄り添うことに徹しました。彼女の人生は、宗教の壁・人種の壁を越えた無償の純粋な利他愛の歩みそのものであり、物質文明に毒された地球上の人々に、人間としての尊厳と理想像を示すことになりました。彼女は、この世から見捨てられ、今にも息を引き取ろうとする哀れな人々の中にイエス・キリストの姿を見ました。彼らに仕えることは、人類のために自ら苦しみを引き受けたイエス様に仕えることであると考え、喜びを持って奉仕に携わってきました。マザー・テレサが目指したのは、物質次元での施しや上からモノを与えるといったボランティア活動や表面的な人助けだけではなく、人間の尊厳に基づく「魂への奉仕・神の愛に倣った他人を優先する愛の実践」だったのです。彼女はこの世から見捨てられた最も貧しい人々に、神から必要とされていること・愛されていることを自覚させる“霊的救い”を目的とした奉仕活動を展開しようとしたのです。キリスト教の愛の教えを純粋に実践した彼女の崇高な生き方に世界中の人々が感動し、敬愛の念を寄せました。
しかし一方で彼女は、闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きかったため、“神の不在感”という「心の闇(霊的闇)」の苦しみを神に訴えています。彼女の「心の闇」は、私たちに、彼女の隠された信仰的苦しみの深さと、その信仰の世界の凄まじさを知らしめることになりました。マザー・テレサの真価は、大きな心のハンディを乗り越えて、純粋で犠牲的な他人を優先する愛を貫いたことにあります。人間は、「何を信じるのかではなく、何を行うか」で真価が決まることを、彼女の人生は私たちに教えているのではないでしょうか。
イエスさまは、神でありながら、わたしたち人間のひとりとして、この世界に生まれました。イエスさまは、暗闇の中に震えている人のそばに寄り添いました。行く先の分からない荒野を旅するような不安な人のそばで共に歩みました。苦しんでいる人といっしょに苦しみ、悲しんでいる人といっしょに悲しみました。イエスさまに出会って、イエスさまが伸ばす手に触れられて、たくさんの人が癒されたり、慰められたりしました。そうやって、イエスさまは、人と人との真っただ中に生きておられたのです。イエスさまの姿には、華やかさも、美しさもありませんでした。でも、その姿には人々への愛が・・・そう、私たちへの愛が、満ち溢れていました。だから、私たちがどんなに深い闇の中にあったとしても、どんなに私たちの心が揺らいでいたとしても、イエスさまは、私たち全ての人をくまなく照らし、あったかく包み込んでくださるのです。
主よ、あなたの光によって、私たちを暗闇から救い出してくださったことを感謝いたします。私たちを贖い、子としてくださるために、人として来られたイエスさまの驚くべき愛を心に刻みます。主のまことの光により私たちの心のやみを照らし、キリストにあって神を知り、恵みと真理で満たしてください。主の謙遜と犠牲を隣人に実践し、私たちを通り管として主の栄光が現わされますように。感謝して、御名によりお祈りいたします。 アーメン