聖書箇所:列王記下5:19後半~27 説教題:「欲とさばき」
岩橋隆二
先だって、教会に未信者のある男性が訪ねて来ました。話しを聞いてみますと、彼は成功者になりたいと言いました。私が「成功者とは具体的にどういうことですか?」と聞きましたところ、彼は「大金持になることだ」と答えました。更に私は聞きました。「大金持なってどうするのですか?」。彼は躊躇なく言いました。「大きな家に住んで、美味しいものを腹一杯食べて、外車に乗ることだ」と。私は「それが実現したとして、その後どうするのですか?」と聞きましたところ、彼は「えっ!」と言って絶句し、人生の目的はそれ以外にないだろうという顔をしていました。これ位はっきりしていると分かり易いですね。彼は貪欲な人です。
「貪欲」の意味を少し分かり易く話しますと、先ず第一に、「物質的な富に対する過度の欲望」のことを言います。欲張り、欲深、強欲、多欲といった言葉で表されます。第二に、「必要以上に飲食したいさま」を言います。第三に、「お金を得ることを極端に望む」ことを言います。そして、「非難されるべき欲深さ」のことを言います。業突く張り、意地汚さ、大食い、利欲(自分の利益ばかりはかる)といった言葉で表すことが出来ます。今日の説教題は「欲とさばき」です。
「神の人エリシャの従者ゲハジは言った、『見よ、私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を何も受け取らずに帰してしまった。ヤハウェは生きておられる。よし、彼を追いかけて行って、何かせしめてやる』」(20節・岩波訳)。
ゲハジは、たくさんの贈り物を拒んだエリシャの意図が分からず、また分かろうともしませんでした。欲にかられたゲハジは、何としても贈り物を受け取ろうとします。エリシャが病のいやしの代価を受け取らなかったことは、ゲハジにとっては到底納得のいかないことでした。ですから、彼は「貧しい預言者のためのエリシャの頼みだ」と嘘をついて、期待以上の物を受け取ります。欲と嘘は一緒に働くことが多いものです。ゲハジは正に貪欲な人間でした。貪欲とは、一言で言えば、非常に欲の深いことです。貪欲は偶像礼拝と同じで、死に至る近道です。エリシャがナアマンから何も受け取らないので、ゲハジはナアマンの一行を追いかけて、エリシャが銀一タラントと晴れ着二着もらってくるように命じた、と嘘をつきます。ゲハジはナアマンから受け取った贈り物を家に隠しました。
25節です。「彼がはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った、『ゲハジよ、どこへ行ってきたのか』。彼は言った、『しもべはどこへも行きません』」。
欲という毒によって良心が麻痺したゲハジは、ためらうことなく嘘をつきます。エリシャの名を売ってナアマンを騙しただけでなく、エリシャにまで嘘をつきます。ところが、嘘をついたことよりも深刻な問題があります。それは、彼の行動がナアマンのいやしを通して現れる神の救いの意味を歪曲させたことです。“神の救いは信仰によって、つまり値のない恵みによって与えられる”という真理が啓示される出来事の中で、彼は自分の利益のために、神の救いの意味を歪曲させました。ナアマンから恵みの代価を受け取ったゲハジは、神のさばきもナアマンを通して受けます。ナアマンの病がゲハジに移ったのです。ゲハジは重い皮膚病に罹りました。それは正に神のさばきです。
今日の聖書箇所から私たちは、イエス・キリストに立ち返ることの重要さを改めて覚えさせられます。つまり、私たちがこの世にあって求むべきものの本質が、神様にある喜びを求めることにあることを教えられます。