聖書箇所:ヨハネ20:24~31 説教題:「見ずに信じる幸いな者」 岩橋隆二
この箇所は、有名なトマスの疑いのところです。イエスさまの復活を信じることは、実は難しいことです。イエスさまが一度目に来られた時、その場にいなかったトマスは、弟子たちの言葉を信じることが出来ず、確かな証拠を要求しました。すると、イエスさまは彼が言ったとおりの方法で、ご自身の復活を直接確認させてくださいました。しかし、直接見ることだけが全てではありません。信仰はイエス・キリストのみことばを聞く事から始まります。「信仰は、実に聞くことから始まり、それは、キリストの福音を聞くことにほかならない。」(ロマ10:17。現代訳)とあります。聖書に記された預言と約束のみことばを受け入れるとき、信仰が生じます。トマスが復活についてのイエスさまのことばを信じていたなら、弟子たちの証言と合致する証拠を見出したことでしょう。どれほど偉大な奇蹟を見ても、心が開いていなければ、何の役にも立ちません。「もし聖書の教えに耳を傾けないなら、たとい死人の中から生き返る者があったとしても、彼らは決して聞き入れなどしません。」(ルカ16:31)と記されています。
イエス様を信じる過程や方法は人によって違います。簡単に信じる人もいれば、永い時間をかけて信じる人もいます。しかし、イエス様に対する信仰告白とその信仰によって得られる結果は、どんな場合でも同じです。トマスは、よみがえられたイエス様に会ったというほかの弟子たちの話を信じませんでした。トマスは自分が判断の主体となり、ほかの人の見解や証言を聞かない傲慢な姿を示しました。自分の経験や知識を脇に置いて、ほかの人の証言に謙虚に耳を傾けるとき、神の恵みを経験することができます。
しかし、そのように疑い深かったトマスもイエス様に出会ってから、ほかの弟子たちのように「私の主よ、私の神よ」(28節。岩波訳)とイエス様に告白します。ヨハネの福音書は、奇蹟的な出来事そのものに関心を持つのではなく、その出来事の中で働かれる神の救いの御手と愛の御声に気づき、イエス様を信じるよう招いています。
イエス様を神の御子キリストと信じるなら、私たちは神様から永遠のいのちをいただくことが出来るのです。永遠のいのちの人生は、この地上ですでに始まっているのです。
「わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。これこそイエス様の復活の言葉です。私たちも困難や苦しみの中に立たされ、そこが墓場のような希望のない世界であっても、イエス・キリストのゆえに、墓が破られる時があることを固く信じていかなければなりません。イエスさまの復活は、私たちの人生途上において、どのような意味をもつか。それは死から甦られた主が私たちと共にいてくださるゆえに、私たちがどんなに希望のない世界におかれても、そこに閉じ込められるということはないということです。復活の主のゆえに、そこから立ち上がって共に歩いてまいりましょう。