2017.1.15説教要旨 題:「黄金律」 聖書:マタイ7:12
牧師 岩橋 隆二
黄金律(英:Golden Rule)は、多くの宗教や道徳や哲学の世界で見出されます。「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明です。現代の欧米において「黄金律」という時、一般的にイエス・キリストの「為せ」という能動的なルールを指します。自分からすすんで他に働きかける様子を言います。
他の宗教でも似たような言葉があります。儒教においては、『論語』に、「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という有名な孔子の言葉が出て来ます。ユダヤ教には、「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」(ラビ、ヒルレル)という言葉があります。ヒンズー教では、「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』5:15)という言葉、イスラム教では「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである」(ムハンマドの遺言)があります。
「どんなことでも、ほかの人からしてもらいたいと思っていることは、その人にも同じようにしてあげなさい」。黄金律と呼ばれる言葉です。この世で生きていく限りにおいて、最高の「おきて」であり教えです。誰もが納得できる言葉と言えるでしょう。では私たちは、その言葉を守っているでしょうか? 実践しているでしょうか? 私たちはこの言葉に、どれほど新鮮な驚きを感じたり、感銘を受けたりしているでしょうか? むしろ当たり前すぎる言葉として陳腐な印象を持つのかもしれません。
「人にされていやなことは人にもするな」ということは、多くの家庭や学校でも教えられている言葉ではないかと思います。実際、私の家庭でも子どもが小さい頃、兄弟喧嘩した折には、よくこの言葉を発して諭してきました。しかし、「人にされていやなことは人にもするな」という言葉は、イエス様が言われる「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」という能動的なことと比較すると、受動的な教えと言えます。
実は人が誰かにしてほしいと思っていることは千差万別で、必ずしも同じことをしてもらっても喜ばない人も出て来るわけです。ある人には有難いことがある人には迷惑な場合もあり、ある人の喜ぶことがある人を傷つけたりすることもあるわけです。そのように考えると、「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」と言うよりも、「その人の立場に立って、その人の喜ぶことをしなさい」と言うほうが余程いいようにも思えます。
しかし、イエス様はそうは言わずに、確かに「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」と言われています。この教えは、自分は何を欲しているのかということを自問させる言葉だと言えます。自分が欲していることが本当に全ての人にとって価値あることなのか。自分が求めているものが本当に人間にとって大切なものであるのか。「自分が人にしてもらいたいことを人にもしなさい」という教えの前に、私たちはまず立ち止って、そのことを問わなければならないのではないでしょうか。
私たちがクリスチャンとして歩いている道は、「イエス様に従う旅」と言えるでしょう。その旅は、「自分が心から欲しているのは何なのか」ということを見定め、見出していく旅だと言えます。イエス様は私たちに問うています。「あなたは私に何をしてほしいのか」と。そして「私に従う旅の中で、あなたが人間として心の底から欲するべきことを見出しなさい。見出したら、それを周りの人に施し行ないなさい」と言われているのです。私たちは、黄金律と呼ばれるこの言葉の前に、まず立ち止り「あなたは何をして欲しいのか。あなたは何を心から欲し、人間として何を欲するべきなのか」と言うイエス様の問いを受け止めたいと願います。そしてイエス様に聴き従い、本当に欲するべきことを周りの人たちに施し行なって行きたいと願う者です。