大山道子
今年の一月、私はこの世に生を頂いて80歳になりました。はやかったなあとつくづく思います。
父母の第一子として愛され、結婚して親元を離れ、上京、その後四人の子供の親となり、福岡では子育て一筋の連続でした。吹き付ける吹雪に体当たりして通った小・中・高時代とはまるで反対の厳しい暑さの夏をこの年を数えるまで、この地で過ごすことになるとは思いもしませんでした。
父の生家は青森の山の中、十和田湖から2時間足らずのところにあります。この地にはお城があったそうですが、私の入学する頃には、小中学校が建てられ、城跡の急な坂を登り降りして毎日通いました。この町には私が小学校に入学した頃、すでに教会堂が日本基督教団七戸教会として献堂式が行われたと記録にあり、私は、いつ頃から通っていたのか定かではありませんが、日曜学校に集まるお兄さん、お姉さん方と遊んでいたのです。けれども、私とよく遊んでくださった三つ程年上のお兄さんが病気で亡くなり、教会で葬儀が行われ、皆で讃美歌を歌いましたが、私は次の一節にくぎづけになりました。
「また会う日まで、また会う日まで…」よくわからないのですが、「また会える」という言葉がその時の沢山の人々の声とともに脳裏に焼き付いています。
また、こんな事もありました。青森県にはアメリカの三沢基地が私の町から3時間ほどの所に今でもあり、沢山のアメリカの方々が住んでいます。終戦の翌年ぐらいのことだったと思うのですが、クリスマスの日、背の高い、鼻の高い、青い目の軍服姿の兵隊さんがこの教会に来られて、クリスマスを一緒に祝って、チューインガムやその他のプレゼントを子供たちに下さって、一人一人と握手をして帰られたのです。外国の人と握手することは始めての事でしたので、夢のような気持ちでその大きな手と握手して「みんな友達なんだ」と心があたたかくなった事を思い出します。
また、こんな事もありました。私の父の姉が88歳で亡くなった時の出来事でした。おばあさんの介護をするお嫁さんに3歳の男の子が「おばあちゃんなんか死んでしまえ」と言ったというのです。すかさず、寝たきりのおばあさんは「いいんだ、いいんだ、叱らなくていいんだ」とお嫁さんに声をかけたという事を私の母は話してくれました。その後、成長したその子は大人になって、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネの福音書10:24)の聖句と共に洗礼を受けています。
長くなりますが、幼い時の記憶のもう一つを話させてください。
私の祖母が蒔いたまくわうりの種が実って、戦後の食糧難の時、おいしく口にしたのですが、その時「私も植えてみよう」と思い、私の小さい頃は台所から出た野菜の切りくずなど、大きな穴に放り込んで肥料としていたのですが、その穴のそばに、食べた後の種を埋め込みました。それが、茎をのばし、葉が茂ってごろごろと実のついた時の嬉しさは忘れられない小学4年生の時の思い出です。神様でなくて誰の業でしょうか。「はじめに神は天と地を想像された。」(創世記1:1)のみ言葉を確信した時でした。
今、私は生まれて80年の数々の生活の中で、家族に、子供たちに、多くの友人になしてきた、至らなかった事を数え、主に赦しと慰めを請います。小さな町に伝えられたキリストの言葉を信じて生きる人々に囲まれて育ったことを心から感謝しております。
「私こそ、私自身のために あなたのそむきの罪をぬぐい去り、
もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ書43:25)
主が下さるなぐさめを信じ今日も過ごします。