【聖書箇所朗読】
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2025年6月22日説教要旨
聖書箇所 コロサイの信徒への手紙4章2~6節
ひたすら祈りなさい
原田 寛
ひたすら祈り続けることはできません。私たちは、現実の事柄に対応して歩んでいかなくてはなりません。衣食住は、生きていくことにおいてとても重要な事柄ですし、現実の一部です。パウロは、そのようなことを無視してひたすら祈りなさいと言っているわけではないでしょう。
しかし、現代の教会において、イエスが40日40夜断食されたことを踏まえて断食して40日祈るということを行っているところがあります。
コロサイの信徒への手紙においては、そのような祈りの勧めはありませんから、「ひたすら祈りなさい」というのは、日常生活の中での祈りとして考えたいと思います。その祈りというのは、「目を覚まして」「感謝を込め」「ひたすら」という意味合いをもったものです。
「目を覚まして」・・・コロサイ教会にとっては、信仰の妨げになる異端のことや影響を受けてしまうような様々なことがありました。パウロは、「神の秘められた計画」を覚えるよう伝えていると思います。「神の秘められた計画」は、十字架につけられて死なれたイエス・キリストによって罪から救われることであり、信仰生活の今の歩みの土台は、この主イエスにあると言っても過言ではないということです。そして、主イエスによって神の子とされ、神の恵みに預かる者となっているのです。
「感謝を込め」・・・・何の功績もないのに、神がイエス・キリストによって罪から救ってくださり、神の恵みにあずかるのです。主イエスによってあらわされている神の愛を覚え、そして、その愛は救われた時だけでなく、今も主に結び続けていることを覚えて、心を込めて感謝することです。心のこもった感謝の言葉は、述べる者にも聞く者にも喜びを増し加えていくようなものです。述べる者には、感謝の事柄に対して応えていきたいという思いを持ちますし、聞く者にも次はどのようにしていこうかと、次への期待が込められるのです。
「ひたすら祈りなさい」・・・「目を覚まして」「感謝を込める」中で展開する祈りは、その祈りの中に自分を見出すようなことではないでしょうか。祈る事柄が関わってきたことならば、内容も具体的になります。しかし、何の関係もなかったことを祈る場合、何もしていないけれど「祈ることだけでも」、何もしていなかったから「これからすべきことは何でしょうか」とか「自分は与えられた事柄として取り組みたい」とか祈ることができます。自分の事柄として祈るとき、豊かなものになっていくのです。
祈ることの豊かさを知るパウロは、「私たちのためにも祈ってください」と求めます。パウロは、牢につながれているという現状を伝えながら、その場にあってもキリストの秘められた計画を語り明らかにできるようにと祈りの支援を求めています。そして、将来、祈られてきた成果を分かち合いたいと思ったのではないでしょうか。
パウロは、「ひたすら祈りなさい」と主イエスを信じる信仰に基づいて勧めているのです。