私は東京下町に生まれ育ちました。自然な環境で育った夫とは正反対でした。
日本人の多くの人がそうであるように、お正月や神社仏閣のお祭りや行事にはいつも家族そろって行っていました。キリスト教にふれる機会は2回ほどありましたが、自分から教会に行きませんでした。
80年安保の時に今まで父から教えられていた事と違う考えがあることを知り、政治に関心を持つようになりました。しかし私が最も望んでいた自分自身の心の平安はなく1年でやめました。就職をして、あるクリスチャンがしていた聖書を読む会を知り、そこから常盤台教会を紹介されて、出席するようになりました。1963年11月24日バプテスマを受けました。今まで暗かった心がイエスキリストを知った時から霧が晴れたようにすっきりしました。
1966年夫と結婚し、仙台郊外にある吉岡バプテスト伝道所に夫と共に行きました。4,5人しかいない田舎の教会でした。新来者は全く来ませんでした。憧れていた田舎の暮らしは東北の冬を経験し、生活面でも大変でした長女を出産するために実家に帰りましたが戻った時、金沢からの招聘があり、金沢へ赴任しました。伝道所の株分けは3人だけでした。母教会はたくさん青年が出席していましたが、70年安保の年、青年たちが「教会粉砕」という垂れ幕を教会にたらして騒いでいましたので合流しました。やがて青年達は教会を去って行きました。私と夫は伝道所に残りましたが、最初にいた3人は母教会に帰りました。私達の礼拝は1軒家を借りて礼拝をしていました。夫の父と次兄の嫁が礼拝に来てくれました。
その後母教会に赴任しました。幼稚園があるためにかえって伝道難しいのでした。私達の楽しみは教会学校の子供達と郊外に行くことでした。伝道所5年、母教会5年の生活で私はすっかり疲弊してしまいました。その後夫はアメリカに2年留学しました。私と子供2人は金沢に残りました。
夫が帰国後、福岡の西南学院に聖書科に赴任しました。子供達は100人もいない小さな北陸学院小學校から町のマンモス中学、高校に学び、随分苦労したようです。長女が先に心身症のため、入院しましたが、ルーテル神大に入学し、今は京都で牧師の妻としてがんばっています。次女はいじめがあったりして、統合失調症になり、28年間闘病しています。今は病院の近くで一人暮らしをしています。私達も精神障害者の家族が共に励まし合い、学び合うために「コイノニア読書会」をしています。今思うと、神様はこのような私を忍耐強く導いて下さったと感謝せずにはいられません。神様はイスラエルの民を訓練するために荒野で40年鍛えられました。私も今、そのように私達を訓練して下さったのだと心から感謝しています。