2017年7月2日説教
「偶然ではない」 聖書箇所:伝道の書3章1節
西南学院大学神学部 3年 小櫻信
2014年に、マルコによる福音書3章13節~15節の御言葉が与えられた。『イエス様は弟子たちを、「ご自分のそばに置くために選ばれた」ということ、イエス様は「ご自分のなされることを見せるため、話されるのを聞かせるため、また奉仕をさせるために、そばに置かれた」まず、そばに置き、それから宣教へと派遣していく』というものであった。この数日後、頭の中に“あかしをしなさい”と声が聞こえてきた。まわりに人は無く、何だったのだろう?と思い悩んだ。
母は以前から、神学校のパンフレットを持ってきたことが何回かあった。兄や弟から「父のように牧師になると思っていた」との声を聞き驚いた。教会でも、「神学校に行かないの?」と聞かれたり、「神学校に行ってほしい」とお願いされたり、「牧師にはならないの?」と聞きかれることがよくあった。牧師にならないの?と聞かれると、「ならない、なりたいとも思わない。」と答えていた。「牧師にだけはなりたくない」と思っていたからである。天に召される父を見送るのが、ずっとそばに居た母ではなく私だったのには何か意味があるのではないだろうかと考えていた時、「神学校へ行ってほしいと願っていた」との父の想いを知った。
多くの方が、神学校には行かないの?牧師にはならないの?と声をかけてくるのにも意味があるのではないかと考えるようになりました。多くの方からの声、頭の中に聞こえた声、父の死後に知った想い、すべては神様からの声であり、私に示された道であったと確信し、その声に従っていきたいと、2015年に献身の想いが与えられた。
西南学院大学に入学後、震災ボランティアの活動を通して、他学部の多くの人と出会い、教会へお誘いしてきた。神学部での学びは、良いことだけではなく、辛く悲しい別れの出来事もあった。この出来事は、今もそしてこれからも、忘れ去ることはできないでしょう。なぜ?と問うこともあります。私に課せられた試練なのでしょうか、誰のための試練なのでしょうか、何のための試練なのでしょうか、今はわかりません。しかし、この出来事、経験がきっと役立つ時があるのだろうと信じています。多くの人に祈られ、支えられて、生活が守られている、ということを実感した一年となりました。