【説教音声ファイル】
2024年8月25日説教要旨
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一15章35~49節
復活のからだ
原田 寛
復活は、蘇生ではありません。復活におけるからだがどのようなものかを考えてまいりましょう。
パウロは、肉のからだと霊のからだという説明をします。肉のからだは、地上のからだであり、今のわたしたちのからだを指します。それは、アダムを通して死ぬべきからだであることが記されています。霊のからだは、復活されたイエス・キリストの栄光のからだ(フィリピ3章21節)、永遠のいのちを持ち、真の神と共に歩むことができるからだです。
霊はみることができないと言われますが、ヨハネ福音書の復活したイエスは、弟子たちにご自身を現わし、触れさせ、食事をともにしています(20章24節以下、21章1節以下)。つまり、物理的な形があるということです。そのからだは、閉め切っていたところに入ってくることができるし(20章19節以下)、多くの人に同時に現れる(第一コリント15章6節)ことができます。変幻自在で、この世のものを超越しています。
パウロは、肉のからだが蒔かれて霊のからだに復活すると記します。種が蒔かれて多くの実を結ぶように、肉のからだは蒔かれて霊のからだに復活するのです。
復活されたイエス・キリストに出会っていない人々には、まったくわからないことでしょう。また、弟子たちは、幽霊を見たのだろうと誤解するする人もいますし、弟子たちの捏造だとする言葉もあります。しかし、この出会いについての証言があるというのが重要です(第一コリント15章3節以下)。初代教会は、キリストの復活と出会い、神が成したもうこととしての信仰の事柄がまとめます。そして、主イエス・キリストは、この信仰の事柄をキリスト教会の福音宣教に託されたのです(第一コリント1章21節、マタイ28章16節以下)。
主の恵みにあずかるわたしたちも、すべてを従わせる主イエス・キリストと永遠の共にいることになります。わたしたちの思いは満たされていて、発する言葉は主の恵みに対する感謝と神への讃美で溢れていることでしょう。