人の歩みは、それがたとえどんなにささやかなことであっても、出会いや交わりによって持ち運ばれ、方向づけられるものです。決して、自らの努力や素質に由来しない出会いや交わりを「恵み」と呼ぶことができるのではないか、と思います。もちろん、人は主体的に、自由な意思をもって自分の生き方を求め、探ることができます。しかし、そのような自主的な在り方に先立って、自らが生み出すことのできない、向こう側から一方的に導かれて入れられる、賜物としての出会いと交わりがあります。私たちキリスト者は、イエス様との出会いと交わりによって、何にも替えることのできない「恵み」を受けました。
私は、今日の宣教を「恵みに代わる恵み」と題しましたが、これは16節の言葉からとりました。新共同訳では、「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とありますが、直訳すると、「イエス様が父なる神様から受けた、恵みと真理の満ち満ちた中から、わたしたちすべての者に恵みに代わる恵みが与えられた」となるようです。続く17節では、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエスキリストを通して現れたからである」とあります。この16節と17節の言葉のつながりから、モーセを通して与えられた恵みと、イエス様を通して与えられた恵みとが、対比されていることがわかります。
イエス様を通して与えられた恵みとは、14節の言葉「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」です。言なる神、イエス様が、人となって(受肉して)私たち人間の内に住まってくださった。これが、「恵み」です。
そして、恵みを受けた私たちの応答とは、「言を肉に宿す」こと、「言を生きる」ことです。ヨハネの言葉で言えば、12節の「言を受け入れる」と13節の「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神よって生まれる」ことです。
恵みと応答とは、いつも一つです。応答を伴わない恵みはありえませんし、恵みに基づかない応答はありえません。大事なのは、恵みの中身と応答の中身です。イエス様が明らかにしてくださった、「血にも、肉の欲にも、人の欲にも由らない恵みと応答」。今朝は、ヨハネの視点から恵みについて考え、その恵みに応える私たちの生き方、在り様に思い巡らしたいと思っております。
2014.11.9 説教要旨 かたえキリスト教会 林 菜保子