【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2025年6月1日説教要旨
聖書箇所 コロサイの信徒への手紙3章12節~17節
愛を身につけなさい
原田 寛
○ どのような人でも自分自身では、神の国に入る事はできません。神の国に入ることができる人は、イエス・キリストの死により、罪が赦され贖われた人です。私たちは、この神の愛に応え、神のなさったことを信じているので、真の神への礼拝をささげるのです。
○ コロサイの教会に、パウロは、「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」と記します。身につけたことは、それらを必要としている人たちに対して用います。
18節以下に、コロサイの教会に集う人たちは、奴隷も含めたいわゆる家族ごとということがわかります。教会に集っている人たちは、近しい関係者であったと思われます。
○ 近しい間柄であればあるほど、目につくことがあります。他人の知らないことも、身近な存在となれば、わかるものです。普通は、問題が浮上した時、その責任を求め、負うべきことがあれば負うことになります。問題が身近な者にあれば、その者を通して責任の重さを感じることになります。
フィレモンへの手紙というのがあります。その内容はオネシモという逃亡奴隷のことでした。オネシモは、フィレモンの奴隷でしたが、逃げ出してしまいました。しかし、パウロの下に導かれ真に改心することができました。それで、オネシモについて愛する兄弟として受け入れてもらえないかということです。その当時、逃亡奴隷の進退についての権限は、生かすも殺すもすべて主人が持っています。そして、この問題の判断の結果も、判断した者に戻ってくるものでしょう。おそらく、フィレモンには、乗り越えなければならないことがあったと思われます。祈り求めた結果、パウロのいうようにフィレモンはオネシモを受け入れます。信仰によって得た結果があったことでしょう。「責めるべきことがあっても赦し合いなさい」…響く言葉です
○ その上で「これらすべてに加えて愛を身につけなさい」とパウロは教えます。人が人を好きになり、それが『愛』することになっていくことは尊いことです。しかし、聖書の『愛』はギリシャ語のアガペーという語が用いられています。「もし愛がなければ、無に等しい、わたしに何の益もない」(Ⅰコリ13章)というパウロ自身に繋がります。彼は教会の迫害者であり、ステファノを石で打つことに賛同した人、つまり集団で罪のない人を殺した、その中のひとりです。パウロは、復活の主イエスに出会い、罪を赦され、迫害者から伝道者に転換したのです。その転換の基は、神の愛(アガペー)です。愛はすべてを完成させる絆なのです。
○ 私は、赦された者であるから、愛されている者であるから、神に選ばれた者だから、聖なる者とされた者だから。・・・神様からの賜物です。もともと私たちは罪あるもの、的外れなものです。聖なる者でなく、神の憐みにより、救われたのです。心で御言葉に聞き、受け入れていくなか、聖霊の助けをいただいて、主のものとなったのです。そのような者は、自らの力で、選ばれた者としての地位を守れません。キリストの言葉が宿るようにしなければつまずいてしまうのです。お互いの学び合い、何をするにも「主イエス・キリストの名」によってするようにとのことです。
こころにいつもキリストの言葉があるというのは、素敵なことです。彼らは、キリストのように「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして、愛」のある人と呼ばれるのです。