【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年9月13日説教要旨
聖書箇所 出エジプト記13章17-22節
我ら荒野を共に旅する
平尾バプテスト教会 森 崇 牧師
今日は出エジプト記から共に御言葉に与りましょう。今日の箇所では出エジプト記のメインイベントの一つであるエジプト脱出がいよいよなされようとしています。エジプトで起こった過ぎ越しの出来事から、いよいよファラオは神の民を去らせるようにしました。神はここで大変な回り道をさせます。それは追ってくるエジプト軍と戦いになった時には神の民がくじけてしまうかもしれない、と神が考えたからでした。それで神は大路であった都市と都市を繋ぐペリシテ街道には導かれず、南に下っていく寂しく険しい荒野の道に迂回させられたのでした。それはイスラエルに戦いを避けさせるための迂回でしたが、神の側からは、この戦いを神ご自身が戦われるという決断に基づいたものでした(14:24)。神の民はモーセと共に紅海を渡って乾いた砂をどんどこどんどこ、一生懸命踏んで逃げる中で、その背中で神が戦われるその音をしっかり聞いただろうかと思います。
私たちの人生の中で、なぜこのような回り道をさせられているのだろう、なぜ無意味な遠回りをさせられているのだろうか、なぜこんな荒野を進まなければならないのか、と思うことが多々あります。自分が歩んでいる人生の意味が分からなくなる時があります。しかし、今日の聖書の言葉と出会う中で気づかされることがあります。ひとつは人生の回り道において、神である主がその責任と決意をもってあなたのいのちを守るために断固たる決意をもって臨んでおられるということです。ふたつめに、その人生の荒野の道において、あなたは決して一人ではないということです。イスラエルの人々が隊伍を整えて出発したように、あなたの人生にも教会という神の民が共に祈りつつ歩んでいます。三つめに主なる神はいつも共におられるということです。主が共におられることのしるしとして、雲の柱、火の柱をもってイスラエルを導きました。これは別々のものが夜昼に与えられたというのではなく、ひとつのしるしとして与えられた雲の柱/火の柱をもって昼夜問わず神である主と共に行進したと言う事です。普通に考えれば、闇の中を行進することはあり得ません。しかし「昼も夜も行進することが出来た」と非常識なことを聖書があえて告げるのは、もはや私たちが常識としている「昼歩けば大丈夫、夜は出歩かない」あるいは「行くことが出来る、行くことが出来ない」という人間の判断の大本/本懐には、神ご自身の「希望の光」と、「完全なる神の良し」があること(創世記1:2-5)を知らされるからです。この完全な「希望の光」とは「救い主イエス」を顕します。イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言われ、パウロもまた「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません…あなたがたは(主に結ばれて)光の子、昼の子だからです」と言われているとおりです。神の光に属するものとして、共に歩みましょう。「神、我らと共におられる」その「雲の柱/火の柱」は、常に私たちと共にあり、ゆっくり、でも確かに前進させます。大切なのは俯き続けるのではなく、見上げて主を仰ぎ見ることです。そのあなたの側には教会の信仰の友、神の家族、そしてご自分の家族だと呼んでくださる救い主イエス様が共におられます。