【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年8月16日説教要旨
聖書箇所 ローマ人への手紙10章1~4節
敗戦後の決心
瀬戸 毅義
昨日は終戦記念日でした。皆さんはどう過ごしましたか。わたくしは妻と二人で庭の草むしりをしました。全国が猛暑だったようです。75年前の8月15日はどうだったのでしょうか。今朝ここに集まっておられる方々は大部分お生まれになっていないのです。私などはたったの5歳-田舎の寒村に住む―でした。
頭の中で昭和20年/1945年3月頃 ― つまり終戦の5か月前—— にタイムスリップしてみましょう。町の様子も人々の様子も現在とは全く異なります。
学校の児童は空襲警報がなって勉強などできません。社会の標語は『欲しがりません。勝つまでは』です。コメも砂糖も塩も配給制で手に入りません。すべての物資も燃料も不足しています。女性は化粧もできません。国を挙げて戦争をしているのです。昼も夜も空襲におびえていました。日本は満州事変から数えればもう15年間戦争を続けています。ノミやシラミにも慣らされました。
とにかく現在の皆さんからすれば、まさに想像するのも困難な別の国でした。そういう中での8月15日でした。正午に天皇の肉声による終戦の放送(特に玉音放送という)がありました。日本の長い戦争が終わったのです。
毎年8月は、戦前の時代を歩んだクリスチャンの書物やその時代に関するもの読むようにしています。怠惰になりがちな自分にムチを入れるためです。8月の講壇はそのことに努めて触れるようにしています。
昨2019年は『きけわだつみの声』をもう一度読み直しました(2019年8月18日)。今年は石原兵永の『私の歩んで来た道』を読みました。以下はその一部です。
・・・・ラジオにより日本のポッダム宣言受諾を発表する陛下の放送を聞いたのである。日本の無条件降伏!ああついにこの事あるか。来るべき日が来たのであると、私は心に叫んだ。日本国にとっては、痛恨にたえぬ瞬間である。しかしとにかくこれで、世界に平和が来たことは喜ばしい。日本人としての私の感情はともかく、内なる霊は、これを当然の事として、受け取ったのである。全国は焼土と化し、幾百万の若き兵士たちは死に、国は荒廃に帰したが、しかしこれは罪を犯した日本に対する神の正義の審判ではないか。神のひき臼が、ぎしりと一転したのである。われらは、塵に伏してこのさばきを受けねばならない。かつて日本の歴史になかった、完全な敗戦である。無数の人々の血と、戦禍と混乱と絶望と、その後にやっと平和が来たのである。何と高価な平和の代償であろう。
しかし今や、日本に救いの第一歩が始まった。日本国民の罪の悔改めを条件として、旧い罪の日本が失せ、新しい正義の日本への第一歩をふむべき恩恵の機会が与えられたのである。当時はよく、終戦という言葉が使われた。しかし終戦ではない。敗戦である。完全なる敗戦である。かって一度も敗戦の経験のなかった目木国民の、明らかな敗戦である。われわれはこの事を胆に銘じなければならない。日本人がいまだ夢想もしなかったことを、神は摂理の手をもって、一挙に実行されたのである。剣をもって立つ者は、剣をもって亡びる。このイエスの言葉の真理を、日本は悲痛きわまる敗戦の経験を通して、学ばしめられたのであった。(『私の歩んで来た道―戦前・戦中・戦後―』(空襲日記<昭和20年>)
これが日本のクリスチャンのいつわらない気持ちだっただろうと思います。今朝の聖書箇所の10章1節をもう一度ご覧ください。わたくしは別の訳で読んでみます。「兄弟たちよ、彼ら[イスラエル人]が救われること、これがわたしの切なる望み、また彼らのための神への願いである」。(塚本訳)
9章3節にはこうあります。「肉にある同族の兄弟たちのためならば、わたし自身は呪われてキリストから離れても、と祈りつづけました。(前田訳)
このようにパウロは自分の国を愛し心配しました。クリスチャンになれば、自分の国を思わない人間になるのではありません。逆です。
先の石原兵永の文章から、終戦(敗戦)直後のクリスチャンの気持ちを読み取ることができます。これからは自由に福音を伝えてもよい。新しい時代が来た。日本の国に福音を伝えたいという気持ちにあふれています。教会はもはや厳しい監視下に置かれず、GHQの方針もあり「にわか景気」のように新来者であふれました。現在そのブームはありません。私たちはどのようにキリストを伝えるべきでしょうか。
日本はキリストを必要とします。キリスト教は一人一人の人間を自立させます。間違ったことにNOと言える人間を育てます。人権の意識を与えます。キリスト教は民主主義を根付かせるのに絶対必要です。偶像ではなく正しい真の神様を知るためにキリスト教は必要なのです。だからこそ混じりけの無い純粋なキリスト教を伝えなければなりません。
伝道を急いではなりません。100年、200年、もっとかかってもよいと思います。キリスト教は道徳教ではありません。修養教でもありません。恩恵教なのです。恩恵(めぐみ)100%教なのです。混じりけの無い清らかなキリスト教を伝えなければなりません。
伝道は商業主義でするものではありません。商売や宣伝に頼るようにしてはならないということです。
熱心なクリスチャンであった矢内原忠雄は1946年「俗化を戒む」と題し、次のように述べています。時期は終戦の翌年です。
商売主義に堕ちるなかれ。宜伝主義に落ちるなかれ。伝道が商業的精神と営業的方法とを以て行われる時、それは世俗的事業であって神の国の建設ではない。分派主義に陥るなかれ、親分子分主義にかたまるなかれ。伝道が分派的精神と封建的方法とによりて為される時、それは世俗的勢力であって愛の国ではないのである。(全集17巻:『嘉信第9巻/1946年、第11月号』)