【説教音声ファイル】
2018年5月20日説教要旨 聖書 使徒20:17-35
『教会の拠りどころ』
瀬戸毅義
この個所(17節~38節)は、使徒行伝の中でも感動的な場面の一つである。ミレトでパウロはエペソの信者の群れの代表者に、心からの挨拶(これが最後の別れとなりました)をしたのでした。これはパウロの第3伝道旅行のことでありました。
イエスと同じように、パウロは来るべき艱難を恐れませんでした。自分の人生の本当の意味と目的、その課題を、パウロは考えていました。 絵 ⇒レンブランドの絵画「パウロ」
2テモ 「4:6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を
去るべき時はきた。 4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」
パウロには自分の命や人生は、主から頂いたものである。彼の務めは主イエスからいただいた役職である。主のための彼の務めは世界に対する務めである。パウロにとっての務めとは「神の恵みの福音」を証しすることでありました。私たちそれぞれの一生にも深い意味と目的があります。
34節で、パウロは自分のごつごつした手を、集まった人達に見せました。誤解のないよう、彼は独立して自分で働いて福音を述べ伝えました。
クリスチャンになったために、当人が職を失い収入が無くなった。そいうこともありました。パウロのことを悪く言いふらす人も大勢いました。彼に対する敵意と反感もありました。そう言う中で、時には教会のために募金もしました。「彼は私腹を肥やしているのではないか」と誤解される恐れがありました。かれは誤解を避けるために、経済的に自立し福音を伝えました。
②教会は、神が御(み)子の血であがない取られたもの(28節)。
教会には様々の困難が押し寄せてくる時があります。私たちクリスチャンにも同様の苦しみや試みの時があります。パウロは次のようにいいます。
だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。伝道者としてのパウロは言いました。今わたしは、主とその恵みの言(神とその恵みの言葉/新共同訳)とに、あなたがたをゆだねます。み言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、み国をつがせる力がある。み言葉は、私たちを造り上げ(新共同訳)、育成し(新改訳)、徳をたて(口語訳)るのです(使徒20: 32)。
③使徒行伝の結び。福音の進展を妨げることはできない。
パウロはローマで軟禁状態のまま〈満2年〉(28:30)を過しました。その後彼がどうなったか,本書は何も語りません。神の国と主イエス・キリストの福音は前進し続けます。エルサレムから始まった宣教はついにローマに達し、更に福音の進展は続いて行くのです。
追記 神が御子の血であがない取られた神の教会(20:28 口語訳)
パウロがエペソにおいて説いた福音の内容は、我らが彼の書簡において読むものと異ならなかった。キリストの贖罪(しょくざい)がその根本であった。「主が己の血をもって買い給いし所の教会(エクレジヤ)」と云うのであつた。「買う」といい、 「贖(あがな)う」と云って、商売上の取引のように聞こえるが、相手より買取ったというにあらずして、己が有(もの)となせりとの意である。神はその子の宝血の代価を払って人を信者になせりというのである。信者の貴きはその故である。罪は無償では除かれない、苦痛の代価を払って帳消しにせらる。罪の代価は死なり、そして神御自身がその子の死をもって我らの罪の代価を払って下さったが故に、我らもまた神の子たり得て彼に近づき得るに至ったのであるというのがパウロの福音の根本義であった。(内村鑑三全集30:291頁。「パウロ伝の一部」より。1927(昭和2)年3月)。
追記 使徒言行録の結び「はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた」(28:31口語訳)。
福音の勝利で使徒言行録は終わっています。パウロは帝国の首都ローマで妨げられることもなく(unhinderedly)福音を宣べ伝えました。それは困難や妨害にもかかわらず福音の勝利でありました。