「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」(マタイ10:29)。
雀は2羽がたったの数百円で売られるように、取るに足らない生き物であるけれども、偶然に地に落ちて死ぬことはなく、そこには神の御心があり、ご計画があるという意味です。ここでイエス様は、私たちが神を恐れるべき理由について語られています。私たちが神を恐れるのは第一に、さばきがあるからです。聖書にはさばきについての御言葉はたくさんありますが、その代表的なものはヤコブの手紙2:13です。「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される」。どんなことでも見逃さない容赦ないさばきです。そして第二に、神がおられるからです。ヘブル人への手紙7:25には次のようにあります。「イエスは、常に生きて、人々のために神に執り成しをしておられるので、ご自分を通して神に近づく者を、完全に救うことがおできになります」。そして私たちが神を恐れる理由の第三は、神が私たちのことを全て知っておられるからです。マタイ10:30節には、「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」とあります。私たちの全て、髪の毛の本数まで知っておられるのが神なのです。「ですから、心配したり、恐れたりしてはなりません。髪の毛さえもみな数えられる神が、ましてあなたがたの一挙手一投足をご存じないわけがない」と言っておられるのです。
つぎに私たちが神を信じる者であれば、必ず覚えておかなければならないことがあります。それは、世には偶然に起こる出来事は一つもないということです。クリスチャンに起こるすべてのことは、神の摂理であり、ご計画です。この世で悔しい目に遭ったり、苦しみにあう時、神様を恨んではいけません。そのような時は、さらに神様に拠り頼まなければなりません。必ず神様は私たちを良い道へと導いてくださいます。
イエス様は、わたしたちが迫害やあざけりや苦しみに会うとき、覚えておくべきことがあると言われました。32,33節です。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」。
これは、現在の信仰の態度が救いを決定するという意味です。このみことばには二つの意味があります。一つは、私たちは、心の中でイエス様を信じて受けいれるだけでなく、必ず人の前で告白しなければならないという意味です。もう一つは、イエス様は神と人間を結びつける仲介者であり、大祭司だという意味です。イエス様を通らないで神の国に入ることのできる人はいません。イエス様を通ってはじめて神の子となり、永遠の命を得ることができるのです。救いというのは、「私はイエス様を信じます」という意味ではなく、主が「わたしはあなたを知っています」と言ってくださることを意味します。つまり、私たちがイエス様を知っていることが重要なのではなく、イエス様が「あなたを知っている」と言ってくださるのを私たちが聞くことが重要なのです。
2015.1.4 説教要旨 牧師 岩橋 隆二