【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年6月26日説教要旨
聖書箇所 ルカ14:15~24
誰もが招かれています。
宗広 一美
ある幼稚園でいつも一緒に遊んでいる中の良い二人の園児がいました。この二人が、あるときケンカをしました。最初にいたずらしたのは、Bちゃんでした。そうされてAちゃんは怒りました。そこでケンカが始まりました。園長先生が、どうしたのかとやって来て仲裁をしました。Bちゃんは、自分が悪かったと認めて謝りました。しかし、Aちゃんは、頑として赦しません。園長先生が、困っていると、おそらく成り行きを見ていたのでしょう。主任先生が、出て来てAちゃんに言いました。“Aちゃん、本当は、Bちゃんを赦したいのよね。赦して一緒にまた遊びたいのよね。”と。するとAちゃんの目から大粒の涙がこぼれました。Aちゃんは、本当は、赦したかったのだけれど、どうすればいいのか分からなかったのです。
わたしがこの話を聞いた時に、人には、この愛の仲裁が必要なのだと心底思わされました。そして人には、この愛の仲裁者が、与えられています。こう言われています。“わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、私たちの罪のためにあがないの供え物として御子をお遣わしになった。ここに愛がある。”(Ⅰヨハネ4:10)と。そうであるからこそ、その愛の仲裁を受けて、こう言われています。“愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが、互いに愛し合うなら、神はわたしたちの内にいまし、神の愛がわたしたちの内に全うされるのである。”(Ⅰヨハネ4:11,12節)と。
つまりは、父なる神様の愛、すなわちイエス様の十字架復活の愛を通して、互いに愛し合うことこそは、神の愛が全うされている神の国であり得ます。私たちの誰もが、この神の国の宴、祝福に招かれています。この世の中には、病気や災害や事故の困難があります。助け合いが必要なのです。ところが、助け合いの必要な困難の中にあって、逆に争いを引き起こして、更なる苦しみを加えるエゴが人にはあります。だからこそ、愛の仲裁者が父なる神様から遣わされました。すなわち罪が増し加わるところには、それ以上の恵み、愛が与えられています。(ローマ5:20)