【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
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2022年2月13日説教要旨
聖書箇所 詩編10:12
貧しい人の幸い
福岡新生キリスト教会
竹田 浩
「神よ 御手を挙げて下さい。貧しい人を忘れないでください。」詩編10:12
1、山上の垂訓の冒頭に、「心の貧しい人達は幸いである。天国はその人達のものである。」と言う言葉があります。一体これはどう言う意味でしょうか。私も母子家庭に育ち、幼い日から貧の辛さを身にしみる程に体験しました。並行記事のルカ6章によると、心は無くて、「貧しい人々は幸いである」となっています。実際、貧しさを経験してみると、とても辛いもので、それを神様からの祝福だと思う事は出来ません。ですから、この告白は自分の貧しさを知り、神さまに祈り求める事を知っている場合においてのみ、告白出来る事だと思います。
2、自分の貧しさを知ると言う事は、本当に意味では神さまに出会わないと出来ない事です。自分の霊的な貧しさを知り、神様に助けを祈り求める事が出来ると言う事は何と幸いな事でしょう。貧しくても傲慢な人が沢山います。ですから、この箇所は自分が貧しい事を知っている人々と解釈しなければならないと思います。
3、しかし、たとえ貧しい事を知ったとしてもそれでは祝福になりません。その貧しさの中から、豊かな恵みをもって報いて下さる父なる神様に祈り求めると言う事を知っている人は幸いです。聖書によれば、心の貧しい人達が大きな恵みをうけました。マタイ伝によれば、イエス様の伝道の最初に出会った人は重い皮膚病の人でした。彼はイエス様に近寄り、「主よ、み心ならば、私を清めて下さい」と、ひれ伏して頼み、イエス様に癒して頂きました。また、マタイ伝15章では、異邦人のカナンの女が悪霊付きの娘を何回も拒絶にあいながら、「ひれ伏して主よ、どうか、お助け下さい」と願って娘の精神病を癒して貰いました。また、イエス様が最後エルサレムに上られる途中で、エリコの町を通られた時、盲人のバルテマイは皆が𠮟りつけて、黙らせようとするのに、「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と激しく叫び続けました。そしてイエス様に癒して頂きました。これ等の人々は自分の貧しさに泣いていた人達です。でも、幸いな事にイエス様に出会い、イエス様に祈り求めることが出来ました。その時に神の国がその人の所にやって来ました。
4、これは、また私の経験でもあります。私の弟は高校1年生の時に、統合性失調症になり、40歳になる迄25年近く、恐ろしい精神病の中にいました。医者からは治らないと見放され、どうする事も出来ませんでした。でも、幸いな事に私も母もクリスチャンになり、イエス様を知りました。そして、20数年間、ひたすらに心を合わせてイエス様に祈り続けました。その結果、完全な癒しを与えて頂きました。イエス様にお出来にならない事はありません。私達は自分の貧しさを知るだけではなく、そこからイエス様に祈り頼る事を学ばなければなりません。その時に、貧しいことは天国を知る事となり、祝福となるのです。イエス様を信じ、祈る事を知っている事は何と幸いな事でしょう。「天国はその人のものです」