聖書箇所:列王記上19:1~10 説教題:「あなたはここで何をしているのか」
岩橋隆二
今日の聖書の箇所に登場しますエリヤは、北イスラエルの7代目の王アハブ、8代目の王アハズヤの治世(前869~849年)に活動したイスラエル初期の預言者です。彼は「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました」(10節)と自分で言っているようにヤハウェの神礼拝に、とても熱心でした。また国家の運命についても鋭敏な洞察をなした人物で、バアル礼拝(偶像礼拝)と対決し、ヤハウェ礼拝を擁護した大指導者でした。
アハブ王は、ツロ(フェニキヤの重要な海岸都市)と結び合って(政略結婚)ツロの王の娘イゼベルを妻として迎え入れます。しかし、イゼベルはバアル礼拝の熱心な信奉者でした。オウヒトなったイゼベルは、強大国の実家を笠に着て実権を振るうようになっていきます。イゼベルが実権を握るようになり、北イスラエルにバアル礼拝が盛んになっていきました。預言者エリヤは、そのようなアハブ王に反対し、彼を強く責めます。エリヤは、異教の神を拝し、ヤハウェ礼拝を行わない罪に対して国家的刑罰を宣言しました。エリヤはカルメル山上でバアルの預言者と対決し、これに勝利し、イスラエルにおいて自他ともに許す偉大な預言者となりました。しかし、カルメル山でエリヤの行ったすべての事、即ち、預言者を剣で皆殺しにした次第を聞いた王妃イゼベルは、「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にも私を罰してくださるように」(2節)と使者を通じて宣言します。それを聞いて恐れをなしたエリヤは、直ちに従者を連れて逃げます。カルメル山のふもとから約160キロメートルあるユダの最南端ベエル・シェバへ落ち延びます(3節)。恐れにとらわれたエリヤは、一人荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続け、えにしだの木の下に座ります。彼はそこで自分の命が絶えるのを主に願います(4節)。イゼベルから逃げるエリヤには、あの450人のバアルの預言者たちに立ち向かったときの勇ましさはありません。「こんなことなら死んでしまったほうが良い」と思うほど疲れ果てたエリヤがいます。カルメル山の戦いは大勝利でした。でも今は惨めに逃げ回っています。大きなことを成し遂げればそれだけ喜びも大きいでしょう。しかし、その勝利感や達成感が永遠に続くわけではないのです。つまり世の中に完全な勝利というものはないのです。エリヤはとてつもない霊的勝利の後に、突然襲ったいのちの脅かしに無我夢中で逃げ、心理的な混乱と激しいうつ状態にさいなまれたのです。しかし神様は、そんなエリヤに優しく癒しの御手を指し伸ばされます。
食べ物に力を得たエリヤは、四十日四十夜歩いて神の山ホレブに着きます。これは必死の旅路です。エリヤはそこにある洞穴に入り夜を過ごそうとしたとき、神の言葉が臨みます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。これに対してエリヤは、自分の期待とは違う質問をされたので、自分が神に会う資格が十分だということを神に主張します。つまり彼は、自分が殺されるという恐怖心から精神状態が混乱し、自分の廻りの信仰者のことを見逃していて、さらに神が働いておられるということすら忘れていたのです。 他の働き人たちが皆死んで、ただ自分だけが残っていますと言いますが、実際は自分だけ殉教を避けてこの場に来ていたのです。そのようなエリヤに神は、「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問われたのです。
大預言者エリヤと言えども、私たちと同じ人間です。誰しも恐れや挫折を感じるのです。神様は御使いを通してやさしい御手で彼を慰めて回復させた後、ホレブ山に導かれました。使命を果たす者には、主の特別な慰めがあるのです。私たちも霊肉ともに疲れ果てるときがあります。そんな時、神様と深く出会うことで力を取り戻すことができるのです。