2015.11.1説教要旨 題:「いちじくによって示される神の御心」
聖書:エレミヤ書24:1~10
牧師 岩橋 隆二
イスラエルの民は、エレミヤが警告した通り、バビロニア帝国との戦争に負けました。こうして、イスラエルの国のおもだった人たちは捕囚の民となりました。その光景を目の当たりにした人の反応は、様々でした。捕囚を免れてエルサレムに残った人たちの中には、捕囚の民として連れて行かれる人々を見ても同情することもなく、「彼ら自身の問題だ」、「当然の報いだ」と考える人もいました。
エレミヤは神殿の前に「いちじく」の入った二つの籠が置かれているのを見ました。
一つの籠には「初なりの良いいちじく」があり、もう一つには「非常に悪くて食べられないいちじく」が入っていました(24:2)。「良いいちじく」は、バビロンへ連れて行
かれた捕囚民を、「悪いいちじく」は新しい統治者ゼデキヤ王の下でエルサレムに残った人々を指しており、「良い」「悪い」の評価は、それぞれの共同体の将来の運命を示していました。バビロンへ連れて行かれ、捕囚とされた人々は、エルサレムに残留している人々からは、神さまに見離された人々と見なされていました。しかし、神さまが最終的に守り導かれるのは、捕囚とされた人々でした。神さまは捕囚という苦難の体験をしている人々に、新しい未来を約束します。エレミヤはバビロンに捕囚された人々が神さまに祝福されて生き残ると預言しました。一方で、その時代の多くの預言者は、バビロンによる災いを免れたことが神さまの恵みであり、神さまに祝福された人々だと語りました。
多くの人の心理に沿うような言葉が、本来の正しさを遠ざけて、誤りへ向けてしまうようなことが得てしてよくあります。そのようなことに私たちは、注意深く気に留めて、間違いない人生を歩いていかなければなりません。「良いいちじく」と「悪いいちじく」の二つの種類の「いちじく」の例から、神さまの恵みは、その審判の中に隠れた形で存在することを、今日の聖書の箇所から学ぶことができます。少し難しい言い方をしますが、これはキリストの十字架の真理、つまり苦難の中の救いと慰めという逆説の恵みに通じる福音的預言とも言えるでしょう。
イザヤ書55章8節に次のようなみ言葉があります。 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」
すべてのことは神の絶対主権にかかっています。神さまは、ユダの地に残っていたりエジプトに逃げた者たちを悪いいちじくにたとえられました。そして、彼らを世のすべての国に散らして艱難と恥を受けさせ、疫病によって殺すと言われました。神さまはすでにエレミヤを通してバビロンに降伏するように命じられていました。たとえそのことが理解できなくても神の御心に従うなら、回復と奇蹟を経験するのです。
神さまはみ言葉に従う者たちを守られ、従わない者たちを裁きと呪いで報いられます。私たち、この地のすべての人は、やがて神の裁きの前に立つのです。福音を信じて従う者たちには永遠のいのちと天国が約束されています。しかし、従わない者たちには裁きと地獄が準備されています。神さまへの従順がまことの回復と安息をもたらすのです。