聖書箇所:ヨハネの黙示録1:1~8 説教題:「みことばに聞き従う者は幸いである」
皆さんの中には、ヨハネの黙示録と聞いただけで尻込みされる方もいるかも知れません。字面だけを追っていくと確かに、何が書かれているのかさっぱり分からないと思うかも知れません。けれども、この書がどのような時代背景で、誰が誰に対して、どのような目的で書いたのかを知ると、何が書かれているかを捉えることが出来るようになると思います。そして何故黙示での表現であるのかを知れば、一気に理解が深まり、自分自身に語られている書として、受け取ることが出来るようになると思います。ヨハネの黙示録は、一言で言えば、「ヨハネが受けたキリストの啓示」と言えます。キリスト教は啓示の宗教です。そして啓示の核心はイエス・キリストです。
ローマで始まった迫害は次第に激しくなり、皇帝を神として崇拝せよという命令まで下りました。そのうえ「再び来る」と約束されたキリストは昇天して半世紀が経っても、まだ来られていない状況でした。教会はそのアイデンティティをさらに固く持ち続ける必要がありました。ヨハネの黙示録は、イエス・キリストだけが礼拝の対象であり、全世界の統治者であることを明確にしています。そして、迫害の時期にも終わりがあること、永遠なる主の国がすぐに到来することを、まるでその国を見たかのように描写しています。
黙示という言葉には、示すという意味を含んでいますが、神さまの側から一方的に示されること、隠れていたものが顕にされるということです。顕にされた時、隠れていたものがこんなものであったのかということがわかるのです。私たちの世界は、わからないことだらけです。神様の御心や神様の言葉が隠されていますので、静まり、聖霊の力を願って真剣に神様と向き合わなければ、神様のみ旨を受け取ることが到底できません。しかし、それがわかる時が必ず来ます。それが世の終わりの時です。黙示録は再臨の主と新しい天と地を待ち望みつつ書かれたものです。それは必ずやってくるものであって、架空のものではないという信仰は、そのことを信じているからこそ、そこに賭けているからこそ、キリスト者の信仰があるのではないでしょうか。
ヨハネの黙示録は、確信の根拠を「旧約聖書」の預言に求めています。平和の主として、この世の王として必ず再び来られるイエス・キリストのイメージをダニエル書の言葉に重ねました。ダニエル書7:13~14、「13私がまた幻を見ていると、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、永遠に生きておられる方の御前に来た。14すると、この方に、主権と光栄と国が与えられ、世界中の人々がこの方に仕えるようになった。その主権は永遠に続くものであって、その国は滅びることがない。」(現代訳)。 また、この方を信じなかった者、この方を殺し聖徒たちを苦しめた者たちの恐怖と後悔の嘆きを、預言者ゼカリヤの言葉に重ねました。ゼカリヤ書12:10、「わたしはエルサレムを始めユダの民に、恵みと祈りの霊を与える。彼らは、自分たちが突き刺した者であるわたしを見、一人子を失って嘆くように、わたしのために嘆き、初子を失って悲しむように、わたしのために悲しむ」と記されています。そしてイエス・キリストの到来の確実なことを「然り、アーメン」によって締めくくっています。