説教題:「モーセを備えられた神」 聖書箇所:出エジプト記2章1~10節 牧師 岩橋 隆二
レビ族のある家庭に、一人の男の子が生まれました。公然と男児殺害の命令が出されている中で、この家族は必死でこの子を匿います。ヘブル人への手紙11:23では次のように記されています。「信仰によって、モーセの生まれたとき、両親は、三ヶ月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。」(口語訳)
「信仰によって、・・・王の命令をも恐れなかった」と記され、あの助産婦たちと同様、この両親も神を畏れる者だったといいます。けれども三ヶ月が経ち、もはや隠しきれないと判断した家族は、その子をパピルスの籠に入れてナイル河のほとりに置きます。防水加工を施したところに、なおも、この子の命を守ろうとする家族の思いが伝わってきます。さばきの波が全世界を覆っても、神の子には救いの箱舟という恵みが約束されています。神様は、ご自分の民のために避け所を備えておられることが分かります。ヘブル人の男の子はみな殺せというエジプト王の命令の中でも、レビの家のある夫婦は、神様だけに頼って三ヶ月間も息子を育てました。そして、子どもを守ることが出来なくなると、パピルス製のかごに子どもを入れ、ナイルの岸の葦の茂みに置きました。この夫婦は、子どもの命がかかった絶体絶命の危機の中で、子どもをパピルスのかごに乗せて神様にゆだねました。この行為は夫婦の信仰でした。人間は決して死を避けることは出来ません。ただ神様だけが、命を治められる方です。
すべては、神の御心の中でなされます。ヘブル人の男の子を殺すというエジプト王の悪い計画が、王の娘によって破られるとは、だれが想像したでしょうか。王女は、パピスルのかごの中の子どもがヘブル人の子だとわかりましたが、子どもをあわれに思って生かす方法を探します。そのとき、子どもの姉の知恵で、実母が乳母として紹介され、こうして子どもは再び母の胸に抱かれて安全に成長できるようになりました。そして、エジプト王の宮殿に入って王女の息子となりました。それが、モーセ(「水から引き出された者」という意味)です。レビ人の夫婦から男の子が生まれ、モーセという名前を付けられるまで、神はともにおられました。選ばれた民を導き、顧みられる神様の御手は、細やかで、隙が無く、完璧です。
「見よ、幼な子は泣いていた」。この言葉の中には「見よ、神は幼な子の泣き声を聞かれた」とのひびきが秘められています。たといどんな絶望の状態にあろうとも、神様はそのうめきを聞き、神様はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、イスラエルの人々を顧み、彼らを治められたのです(出エ2:24~25)。かくしてこのあわれな幼な子はパロの娘の子として成長したのです。
巨大なこの世の権力の前に立つとき、私たちはしばしば自らのあまりにも小ささを知り、不安におののくことがあります。また、この巨人の前にこびへつらいやすい者です。しかし、たとい私たちがどんな巨大な力にかこまれていようとも、そして私には何一つなすすべがなかろうとも、声をはりあげて泣くとき、神様はその声を聞かれるのです。
主イエス様は、「あなたがた今泣いている人たちは、さいわいだ、笑うようになるからである」と言われました。皆さん、私たちも泣こうではありませんか。そのとき神様は天でこれを聞かれ、全能のみ手をもって、そのところから私たちを解放してくださいます。