2016.5.8説教要旨 聖書箇所:ヨハネの黙示録18:1~8
説教題:「世の中は何に酔っているか」 牧師 岩橋隆二
ヨハネは紀元後1世紀頃、キリスト者弾圧のローマ帝国から捕えられ、島送りされたパトモス諸島で神様の御声を聞きました。さて、私たちは神様の御声を聞いているでしょうか? 今日、神様の御声を聞くということは、神様が直接語られた旧約の時代や、イエス・キリストが語られた新約の時代の頃のものとは同じではありません。今日の時代は、御霊(聖霊)を通して神様の御声を聞きます。旧約の時代には、王、祭司、預言者など、特別な人だけが神様の御声を聞きました。新約の時代には、神様に直接出会った人やイエス様の弟子たちだけがイエス・キリストの御言葉を聞きました。しかし、聖霊が下った後には、御言葉を聞く対象に制限がなくなりました。だれでも主の御名を叫ぶ者は救われ、御霊を慕い求める者には御霊を受けます。また、御霊を受けた人々はだれでも、御霊により御声を聞きます。御霊が来られれば、自分の中にある暗くて否定的な考え、病んだ思いが耐え切れなくなって出て行きます。そして、自分の中に神様の言葉が生まれ、口から祝福の言葉、いのちの言葉が出始めます。ですから、私たちは御霊を受けて、神様の御声に敏感にならなければなりません。神様の御声をよく聞くためには、まず閉ざされた窓を開いて神様を受け入れなければなりません。神様の前に全てを明け渡すことが必要です。そうすると揺るいでいた心、不安な心、憂鬱な心に神様の平安が満ちるようになります。そのような平安がある時に、神様の御声が聞え始めます。神様を崇め、神様との関係が回復される時、神様の御声が聞え始めるのです。
エレミヤ書51章2節「わたしはバビロンに、あおぎ分ける者をつかわす。彼らは、その災いの日に、四方からこれを攻め、それをあおぎ分けて、その地をむなしくする」。
「あおぎ分ける」の意味は、もみ殻やごみなどをあおいでえり分ける、つまり選別するということです。私たちはえり分けられてどちらに行くのでしょうか? 残されるのか、或いは捨てられるのか。
私たちは、厳しい現実が目の前にある時には神様を求め、平穏な時には神様は大事であるがこの世の事も大事であるといった考えに流されがちです。そして、この世の権威、権力、常識といった、そういうものに関わりを持って、信仰は信仰、生活は生活だというふうになっていきます。キリスト教信者は人を助けたり、人の重荷を負っていったりすることの出来る者になるためにも、まず自分がこの世から離れ去り、この世の罪に染まらないようにしなければなりません。自分を清く保つことに力を注ぐことが非常に大事だということを、ここでは教えています。
神様は悪の実体と悪人に対して明確に印をつけられます。私たちの額に獣の印を付けられないように、或いは「神に従順なる者」の印を押していただけるように、信仰に励んでまいろうではありませんか。