2017.2.26説教要旨 題:「十人の乙女の譬」 聖書:マタイ25:1~13
牧師 岩橋 隆二
マタイ25章は、天国についての三つの教え(十人の乙女の譬・託されたお金の譬・
最後の審判の譬)が書かれています。今日の聖書の箇所1~13節は、花婿を迎えに出た十人の乙女のことが記されています。当時のユダヤでは、花嫁のところへ花婿が迎えに来て、その花婿を花嫁の友人が明かりを持って出迎える習慣がありました。
イエス様は、ご再臨のときのことを婚礼に、またイエス様を花婿にたとえておられます。この譬話で重要なポイントは、花婿の来ることが遅れたという点です。
聖書のメッセージは、今日のように混乱した時代が、いつまでも続くものではなく、古い時代は終わり、新しい時代が来るというものです。それは神の子が絶対的権威を持って、父なる神の元から再び来る時があるということです。そして今の時代が終わるときに(この世を去るときに)、私たちは皆、神の前に立たなければならないのです。これが最後の裁きの時です。だから今はどんなに要領よくこの世を渡っていても、世の終わりの時にはすべてがあらわになってしまうのです。その時がいつかわからないから、一生懸命にその時に備えて生きていくのがクリスチャンなのです。それは、生れてからこれまで接してきた大勢の方たち、つまり、親・兄弟・親族、恩師、友人・知人、上司や部下を一人一人思い浮かべる時、何らかの形で迷惑をかけて来たことの方が多かったことを思わされるわけです。その一つ一つを思い起こして心から悔い改め、祈り、ひたすら神様に赦しを乞い続けることです。その時に備えるということはそういうことです。
37節以降で、イエス様は「待つ」「目を覚ましている」ことについての譬を三つ語られました。「ノアの時」、「忠実な僕と悪い僕」、そして「十人の乙女の譬」(25:1)です。これらが共通して伝えようとしているのは、「その日、その時は、だれも知らない」(24:36)ということと、「予期せぬ日、思いがけない時に」(24:50)来る、ということです。
十人の娘のたとえは、主の再臨が予想よりも遅く実現する状況を描写しています。「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた」(5節)とは、主の再臨が遅れると、信徒たちが待ちくたびれることもあることを示しています。このたとえでは、イエス様が再び来られる日と時間を正確に知ることができないため、どのような状況であれ、主の再臨に備えなさいと教えています。
十人の娘の目的は、花婿を迎えることでした。賢い5人の娘は、余分の油を準備しましたが、愚かな5人の娘はともしびにある油以外に余分の油を準備していませんでした。ここで鍵となるのは、「油を十分に準備していたか」です。主がこられるのが早くても遅くても、問題なく迎えられるように、油を準備しなければなりません。私たちは何時この世を召されるか分かりません。早くても遅くても、天の御国に凱旋出来るように準備をしておかなければならないのです。明かりの用意、油の用意をするとは、居眠りをする中にあっても、私たちが絶えず御言葉を自分の中に蓄えていくときに、私たちは主のご再臨の時に、明かりをともして出ていき、主を迎えることが出来るのです。