2016.11.27説教要旨 題:「収穫の主に祈る」 聖書:マタイ9:35~38
牧師 岩橋 隆二
世界祈祷週間のことを覚える時、先ず思い浮かぶのはロティームーンのことだと思います。約140年前、福音宣教のために中国大陸に渡ったのがアメリカ人女性宣教師ロティームーンでした。彼女の人生は、「一粒の麦が地に落ちて死に、豊かな実りをもたらす」ように、今に至るまで、覚えられ、影響を与え続け、神の国の収穫をもたらし続けています。私たち「バプテスト」という仲間の歴史の中に、ロティームーンがいたということはとても誇りに思えることです。しかし、彼女が特別に強い女性だったからというわけではありません。おそらく、彼女も私たちと何の変わることのない弱さを抱えた一人の人でありながら、その弱さや、限界の中で、なお「神の愛」に押し出されるようにして、中国の貧しい人々と共に生き抜いた人だったのではないかと思うのです。彼女は、一人で頑張り抜いた人生ではなく、どうか共に働く働き人を送って欲しいと、本国の教会に手紙を書き、助けを求めて、現地の人のために生きた人だったのです。今日、私たちは、140年前に中国に渡ったロティームーンの祈りと願いを受け継いで、主に向かって、どうか働き人を送ってくださいと、祈るために集められているのです。
ここにいる私たちも、誰かが、私たちに福音を語ってくれたから、そして、神に愛されていることを知ったから、今、ここにこうして心平安の下にいることが出来るのではないでしょうか。今日の聖書箇所には主イエスが、町や村を隈なく巡り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを治されたことが記されています。イエスさまは何故そのような大変な働きをなさるのでしょうか。その動機は何でしょうか。 36節にその理由が書かれています。「彼は群衆を見て、彼らのことで腸のちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らはあたかも牧人のいない羊のように疲れ果て、打ち棄てられていたからである」(岩波訳)。 孤独の中で、さびしさの中で、打ちひしがれた人々の姿。私たちもきっと、そのような一人だったのではないでしょうか。弱り果て、絶望していた時が、私たちにもあったのではないでしょうか。そのような私たちを、主イエスさまは深く憐れんでくださったのです。 口語訳で「深くあわれまれた」と訳されている言葉は、原語は「スプランクニゾマイ」で「腸のちぎれる想い」という意味です。強烈な心情の動きを表わすことばです。つまり、誰かの悲しみ、苦しみのために、御自分も痛んでしまう、そのような痛む愛、痛む憐みのことを言っています。「かわいそうに」と、同情しても、自分は痛まないでいられることは出来ます。しかし、主イエス様のこの「腸がちぎれる想い」とは、ご自分が共に痛む憐みなのです。これは、神の働きというものが、伝道という働きが、自分も頑張ればできるという、単なる自己実現に陥ってはならないことを言っています。主イエス様の「深い憐み」の心を、「腸のちぎれる想い」の心を、祈り求めることがないままに、誰一人として、神さまの愛を伝える働き人として、歩むことなどできないことを言っています。私たちはどこまでいっても、自分の罪を抱えて生きるしかない不完全な存在です。だからこそ、祈りがなければ、私たちは神の働きなど出来るわけがなく、「神様が、私たちを通り管として用いてください、あなたの働き人としてください」と、切に祈らなければならないのです。