2015年5月3日 説教要旨 聖書箇所: 使徒行伝15章1~11節
説教題:「律法主義と恵みの福音」 牧師 岩橋 隆二
私は、子供の頃からある強迫観念に支配されて生きてきました。それは、「今日、善い事をしないと明日悪いことが起こる」という自分を律する内容でした。ところが、これが中々出来ないのです。「善い事」をしなければならないという、言わば自分が作った「律法」にがんじがらめになっていきました。私は必然的に「完全主義者」になっていったのです。正にパリサイ人そのものだったのです。
私は50歳を前にして、心に大きな焦りを覚えていました。「何のために生きているのか」「自分はどこに行こうとしているのか」そのことが分からずにもがいていました。そんな時、一つの決心をしました。千日間、毎日を真剣に生きてその答えを導き出そうと、「千日行」(修業)を始めたのです。朝4時に起き、主に仏教書を読み、般若心行を唱え、悟りを得んがための努力を続けました。そうした日々が100日過ぎ、300日と過ぎ去って行きました。たまに悟りを得たかに思えるようなこともありましたが、次の瞬間には人生を見出せないで不安に戦いている自分がいました。そのような日々が900日も過ぎた頃だったでしょうか、人生の絶望の淵にいた私を、神様は救いの御手を伸ばして下さったのです。明日、明後日のことに思いわずらい続けてきた人生に光が注がれたのです。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身がわずらうであろう」(マタイ6:33,34)。私はこの御言葉に触れた瞬間に、自分自身をがんじがらめにしていた呪縛から解き放たれたのです。自分自身が作った「律法」から解放された瞬間でした。自分の考えにとらわれて見えなくなっていた目を、神様は開いてくださったのです。
今日の聖書の箇所15章1節です。「さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに『あなたがたも、モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、救われない』と、説いていた」。数名のユダヤ主義者がアンテオケに来て、イエス様を信じた異邦人も、割礼を受けモーセの律法を守らなければならないと教えました。彼らはイエス様を信じても、ユダヤ教の伝統と律法を無視してはならないと信じていました。すなわち異邦人が、イエス・キリストを受け入れて聖霊を体験するということを聞いていても、相変わらず古い契約だけを固守しようとしたのです。アンテオケだけでなく、フェニキアとサマリヤの聖徒、そしてエルサレムの聖徒のほとんどが、異邦人が主に立ち返ったことをとても喜び感謝していました。しかし、ユダヤ主義者たちは、すべての人をキリスト教徒ではなく、イエス様を信じるユダヤ教徒にしようとしていました。自分の考えにとらわれてしまい、神の働きの妨害者になっていたのです。
ユダヤ主義者たちが提起した問題によって、エルサレム会議で激しい論争が繰り広げられることになりました。その時ペテロが立ち上がり、神が彼を選ばれ、異邦人に福音を伝えさせ、ユダヤ人と異邦人を区別せずに聖霊を注ぎ、罪の赦しの恵みをくださったことを語ります。そして、律法を強要することは、神を試みることであり、異邦の聖徒たちにくびきをかけることだと強調します。そしてユダヤ人も異邦人も同じように主イエス様の恵みによって救われるという真理を宣言します。ペテロもまた、異邦人として生まれ、ユダヤ教の中に育ちましたが、彼は神の恵みの中で自由を得ました。律法にとらわれた信仰ではなく、恵みの中で自由と喜びを味わうことを悟ったのです。律法主義はまことの信仰ではないのです。