説教題:「恐れるな」 聖書箇所:イザヤ41章10~13節 粕屋バプテスト教会 神学生 久原榮實子
預言者イザヤは、イスラエルの民が北王国イスラエルと南王国ユダに分けられた時代の預言者であり、ウジヤ王を始め、3人の王の治世下で約60年間、預言者として生きました。社会は大いに変動し、アハズ王、マナセ王のもとで民は以前の偶像礼拝に戻りました。そして、神からの助けよりも、異教徒の民からの軍事的援助を求めると言う大きな罪を犯しました。敵に攻撃され、恐れていました。今日の聖書箇所は、その民に語ったイザヤの言葉です。
新約聖書でも、イエス様は、マタイ福音書14章27節で、海が荒れ、船をこぎ悩み、海を歩いて来られたイエス様を見て、恐れている弟子達に、『安心しなさい。わたしだ、恐れることはない』と語って下さいました。イエス様は別の箇所でも何回も『恐れるな。平安でいなさい。』と語られます。マタイ福音書28章9節10節で、復活されたイエス様の最初に語られたお言葉は、『平安でいなさい。恐れることはない。』でした。
ある時、急に、主イエス様は私に罪を指摘されました。「私は間違っていた! 私は傲慢だった! 神様、赦して下さい!」と、神様にお詫びをしました。何が間違っていたのか、具体的なことを指摘されたのではないのです、そのとき私の心はとても不思議な静寂に包まれました。人間がこんなに優しくなれるのか、人を愛することも出来ない頑固な私のような者が、こんな優しい心になれるのかと、いぶかるほどのとてつもない優しさに包まれたのです。
イスラエルの民と同じです。神様から罪を知らされ、裁きを受けます。が、今を生きる私たちは、イエス様がこの地上に来てくださり、十字架にかかり、私たちの罪を引き受けて、神の子として下さる新約時代に生かされている故に、主イエス・キリストを信じる者に圧倒的な赦しを戴きます。けれども、繰り返し、神様に頼らないで罪を犯し、起こってくる出来事に恐れ、途惑う私たちに、『恐れるな、私があなたと共にいるよ、わたしがあなたを助けるよ』と言われる神様がおられます。イエス様故に聖なる神様と和解させて戴けるのです。
神様の訓練の途中は解りませんでしたし、今も途中ですが、何と言う恵みの日々であったことだろうと気づかされます。み言葉は、真実です。疑ったり、つぶやいたり、倒れそうになる時、いや、倒れた時も、主は忍耐して、支えて、赦して下さり、今日があります。人間がどうあろうと、神様が起こされた願いは、神様が実現されました。そしてその願い、祈りは消えることなく、再び続いています。
祈り続けると言う事、十字架につけられた主イエス様に従う私たちの道は、ある意味、苦しみの道でありますが、この道についても、主は語って下さいます。十字架につけられ、息を引き取られる最後の時、「私は渇く」と語られた主は、『あなたの苦しみは、私を満たす』と、私たちの『愛』を求めておられます。そして主は、苦しむ私達を一人ぼっちにはなされないお方です。「あなたが苦しむ時、いつもわたしが共にいるよ。何も心配しなくていいんだよ」と聖書のみ言葉を通して語られます。