2015.8.9説教要旨 説教題:「日用の糧」 聖書箇所:出エ16:11~20
牧師 岩橋 隆二
荒野を進むイスラエルの民が繰り返し不平不満を口にしますが、それでも主は民を養うために「天からパンを降らせる」と約束しました。神は、どんなに難しくつらい状況でも、ご自分の民のために完璧に責任を取ってくださいます。草一本育つのも難しい乾いた荒野で、神は日用の糧を与えてくださいます。朝にはマナが一面に降り、夕方にはうずらが宿営を覆いました。露とともに降りたマナは小さくて丸い霜のようでした。人々は新しい食べ物を見て「これは何だろう」と尋ね、ここから「マナ」という名が由来しました。モーセは、これは主が与えてくださったパンであると答えます。神は、40年間、200万人を越える人々を荒野で養われました。神は、ご自分の民の必要を満たしてくださいます。それを通して、神がどのような方であり、イスラエルがどんな存在かを確認させられます。聖徒は、腹を満たす糧ではなく、神のみことばに拠り頼んで生きる存在です。
皆さん、私たちは日用の糧を与えてくださる神に感謝しているでしょうか。「日用の糧」は、「主の祈り」の中に出てきます。マタイ6章とルカ11章にあるわけですが、私たちが機会ある毎に唱えていますのは、マタイ6:9~14節のところです。ここで重要なのは単に、「我らの糧を今日も与えたまえ」ではないということです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」の「日用の」という言葉が重要なのです。必要をこえて集められるだけ集めようとして有り余るほど蓄えようとする今日の時代の中で、主が与えられる天の食物に信頼して一日一日を生きる、そのことの大切さを私たちは考える必要があるのではないでしょうか。
主の晩餐のパンとぶどう液は、私たちの罪のために十字架で捧げられたキリストの肉と血を表しています。私たちは主の晩餐のパンとぶどう液を具体的に食し、飲むことによって、キリストの十字架で裂かれた肉と流された血に与るのです。そして、キリストの十字架の死と復活の命に与り、私たちは罪赦され、新しい永遠の命に復活させられる新しい命に生かされるのです。ここにこそ本当の意味で、私たちの命を養うまことの食べ物があり、まことの飲み物があるのです。この主の晩餐の食べ物と飲み物の背後には、キリストの犠牲の愛があります。ですから、このパンを食べ、ぶどう液を飲む時に、自らの罪を悔い改めることなくして、これを頂くことはできないのです。そしてまた、キリストに感謝することなしにこのパンを食べ、ぶどう液を飲むことはできないのです。逆に言えば、私たちがキリストの愛と犠牲に心から感謝して頂く時に、主の晩餐のパンとぶどう液は初めて私たちを養う命の糧となるのです。
果たして私たちの日々の食卓は、本当の意味で豊かな食卓になっているでしょうか。
しばしば私たちの罪が原因で、折角用意された食事を台無しにしてしまうということがないでしょうか。家族とともに食事をしていても一言も言葉を交わさない。その時に、食べる食事は何と空しいことでしょうか。私たちの食卓にも、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しが必要なのです。互いに罪を赦し合い、感謝して食事を頂くことが本当の意味で食事を豊かにするでしょう。そして、食卓で交わされる言葉が私たちの食卓を豊かにしてくれるでしょう。