説教題:「死ねば実を結ぶ一粒の麦」
説教個所:ヨハネによる福音書12章20節から26節 博多ニューライフ教会・神学生 南里孝子
この聖書箇所は、イエスキリストの栄光の時について語られる箇所です。ここで、ギリシャ人が弟子たちを通して、イエスに会いたいと願ってきました。そして、ピリポという人のところに来ました。彼の名前がギリシャ風だったからだと言われています。そして、ピリポがアンデレに話し、二人でイエスに話したのです。イエス様は、「よくよくあなたがたに言っておく。」という切り出しで語られました。「よくよく」とは、他の訳では、「まことにまことに」などとありますが、二度繰り返されていることに気がつきます。もともと、アーメン、つまり「そのとおりになる」という意味ですが、文のはじめに使うと断言するという意味です。ですから、イエス様は、その後のメッセージを大切なこととして強調されたのです。イエス様の強い意志がそこにあるのです。
「一粒の麦が地におちて死ななければ、それは一つのままである。しかし、もし死んだなら豊かに実を結ぶようになる。」私の農家の娘ですから、子供のころ、農繁期の時期は田植えなどを見て育ってきました。確かに地に落ちなければ収穫はありません。ここで使われている「死ぬ」とは、イエス様の死を表しているとすれば、十字架の死を表します。「もし、死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様は、人類の罪のためにかわりに死んでくださいました。それを受け入れることによって私たちは罪の赦しをうけるのです。それは人類の魂を救うという豊かな実です。また、この「死ぬ」という語のギリシャ語は、アポスネスコーと言い、ここでは、現在形で使われています。その場合、一般的、反復的な意味に考えられます。それは、私たちにも当てはまるのです。自分自身の思いや、自分自身がにぎっているものを、神様にゆだねれば、豊かに実を結ぶのです。それも一度でなく、繰り返し、神様に委ね続けるのです。
私たちが、自己犠牲的に仕えるということは、種まきをしていることでもあります。一粒の麦が死んで実を結ぶように、種をそのままにしておけば、種は一粒のままですが、まくことによって、計り知れないほどの実を結びます。私たちには、たくさんの種が与えられています。「雨や雪が天から降って元に戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種まく人には種を与え、食べる者には、パンを与える。」(イザヤ書55章10節)神様が与えるべき種を与えてくださるのです。ですので、惜しみなく、種をまき続ければいいのです。そうすれば、実を結んでいくのです。
私たちは自分の思いを捨て、自分を死なせ、神様にささげる生き方をしなければなりません。種がたくさん与えられているにもかかわらず、それをじっと自分で握っている生き方でなく、それをあふれるばかりに蒔いていく生き方を願ってまいりましょう。