【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年11月7日説教要旨
聖書箇所 へブル人への手紙13章1~3節
「知らず」の伝道
瀬戸 毅義
今の時期は世界バプテスト祈祷週間です。未開の地域や見知らぬ国で勇敢な伝道をした人たちのことを思い浮かべます。私たちでいえば真っ先に思い浮かぶのはC.K.ドージャー先生(Charles Kelsey Dozier、1873-1933)です。先生の伝道の実は西南学院となりました。ウイリアム・ケアリ(William Carey,1761-1834)はバプテスト派の宣教師としてインドのベンガルに赴きました。貧乏と闘いつつ聖書全巻をベンガル語に翻訳しました。彼は近世海外伝道の父といわれます。
当時の学生のドージャー先生に対する回想を一つ選んでみました。
先生は実に身を持するに倹素であった。大抵の人であるならばモーニングを持たない者はない位置にありながら持たれなかった。私は一、二度先生に若しモーニングを作られたら先生の堕落であるといったことがある。其時先生は私の云ったことに深き共鳴を以って喜ばれたのであった。学院創立の年クリスマス、プレゼントに職員一同が蝙蝠傘と瓜の漬物を差し上げた時に大へん喜ばれた、何ぜなれば其頃は破れ古した物を持って居られたからであった。又当時数年間は、夏を除いては春も秋も冬も山高帽を被り続けられた。それほど先生は倹素の人であった。(『ドージャー院長の面影』古澤正雄)
内村鑑三「キリスト信徒のなぐさめ」の中に中国伝道に従事して長い間働いたが得られた信者は一人であったという話があります。
ある中国に赴いた宣教師は、四十年間伝道に従事して、一人の信徒も得ませんでした。けれども喜びをもってこの世を去りました。彼は得たところがなかったのでしょうか。そうではありません。師父ザビエルは東洋において、百万人以上に洗礼を施したといっても、たぶん現世より得た真の結果においては、この無名の一宣教師におよばなかったのではないだろうか(第4章 「事業に失敗せしとき」)。
クリスチャンの伝道、祈りと言えばひとの前に目立つこと、大きなことだけではありません。伝道は教会員を増やすため教会のためにするのではありません。
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。(コリント第一 9:16)。
伝道は、神の愛に励まされてするのです。特別大きな企てをするのではありません。むしろ平凡な普通の生活のなかになされるのではないでしょうか。
すべてのことall things、everythingです。成功も失敗も、順境も逆境も、貧も富も、幸運も不運も健康も病気もすべてです。キリスト者には万事が救いに導く恩恵となります(ローマ8:28)。
And we know that for those who love God all things work together for good, for those who are called according to his purpose.(ESV)。
「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」(2テモテ 1:9 新共同訳)。
私たちの救いは、神のご計画によります。それ故これほど確実なことはありません。
へブル書13章1-3節はそのことを私たちに教えます。へブル書が記されたAD60~70頃はキリスト者にとって周囲は危険でした。安全に格安で宿泊できる場所はありませんでした。ネロ皇帝の統治はAD54-68です。パウロのローマでの投獄と死はAD67-68年頃。クリスチャンはお互いに兄弟姉妹でした。とりわけ兄弟愛は貴重でした。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました(13章2節)とありますが、この聖句の背景は創18:1-15、士師6:11-24です。アブラハムとサラ、マノアは知らずに天使たちをもてなしました。自分では知らずにとうとい親切をしました。塚本訳では このことによってある人々(アブラハム、サラなど)は知らずに天使を泊めて[神の祝福を受け]たからであるとあります。私たちの行いも人の目には小でも神のおん目には大であることがあります。このことを知って私たちは大きな慰めを受けるのではないでしょうか。
意識せずになした愛の行い。思わずの親切。これこそ本当の伝道だと思います。そういうことをこの聖句から学びました。