「イエス、バプテスマを受ける」
説教要旨 2017.1.1 題:「神が喜ばれる者」 聖書:マタイ3:11~17
牧師 岩橋 隆二
今日の聖書箇所の小見出しは、岩波訳が「イエス、バプテスマを受ける」、現代訳は「イエスの受けられたバプテスマ」と書かれています。ヨルダン川の水で、ヨハネからイエス様ご自身がバプテスマを受けられたというのは、とても不思議なことです。イエス様は神様なのだから、ヨハネからバプテスマを受ける必要などない筈です。最初誰もがそのように疑問を持つところです。
11節の<聖霊と火とのバプテスマ>とは何でしょうか? ヨハネのバプテスマは、罪の告白に基づく、悔い改めの水のバプテスマでしかなかったわけです。水は表面を洗いきよめるだけで永続的結果を残さない。それに比べて、聖霊は、その働くところどこでも心の中にまで入り、いのちをそこにもたらす。そして火は物を溶かし、あるいは焼き尽くしてしまう。そのような意味です。12節の<箕>は、先の曲がった数本の歯がついた、熊手に似た農具です。穀物と殻の混じったものを空中に投げ上げ、風で軽い殻を吹き分けました。ここで描かれているのは、最後の大審判の場面です。<麦>は悔い改め信じて主のものになった者を、<殻>はそうでない者を表しています。
宗教指導者たちの前で火のように怒って悔い改めよと叫んだバプテスマのヨハネですが、イエス様の前ではへりくだりました。ヨハネは、自分のあとから来られる方の偉大さについて説明します。まず、自分はその方の履き物を脱がせてあげる値打もない者であると言います。当時のギリシャ・ローマ文化ではしもべが主人の履き物を片付けたので、ヨハネは自分がイエスのしもべとなる価値もない者であると表現したのです。次に、自分は水でバプテスマを授けるが、その方は聖霊と火とのバプテスマを授けられると言います。働きの価値と力において、自分はイエス様と比べることすら出来ないというのです。麦を集め、殻を焼くことは、終りの日に下るさばきを象徴します。イエス様は、全世界の救い主であるだけでなく、さばき主なのです。私たちは、さばき主でもあられるイエス様を、救い主としてだけ思っていないでしょうか。すでに受けた救いだけを誇ってはいないでしょうか。
人となられたイエス様(ピリピ2:7,8)は、「すべての兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」(ヘブル2:17)とあるように、メシヤとして人類の救いの計画を達成するためには、このバプテスマは当然通らなければならないものだったのです。
16,17節「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
<これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ>という言葉は、詩篇2篇7節とイザヤ書42章1節からの引用で、旧約聖書を熟知されていたイエス様は幾たびとなくこの言葉を瞑想されたことでしょう。ここで起こっていることは、父なる神との関係においての神の子が、なすべき働きに任じられたことを意味しています。<わたしはこれを喜ぶ>とは、「わたしの喜びがこの者にある」、すなわち「この者の上に人類の救いというわたしの計画がかかっている」という意味です。これは神への全き服従をもって仕える神のしもべの姿についての、イザヤの預言の一部(イザ42:1~4)です。
神様の御心に従うとき、神様が認めてくださり、聖霊が臨在されます。イエス様がバプテスマを受けて水から上がられたとき、聖霊が下り、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声が聞こえます。へりくだって神の御心に従ったイエス様の道に従うとき、私たちも神の子として認められ、聖霊に満たされる祝福を味わうことができるのです。