聖書箇所:ローマ人への手紙8章1節~3節 久原榮實子神学生
1節の「キリスト・イエスのうちにある者たちにとっては」の「うちにある」という言葉が、とても重要です。イエス・キリストに結ばれている者は、罪に定められることがない、と語られているのです。ここで言われている罪とは、聖書で言われているところの人間の根源的な罪、人間ではどうする事も出来ない罪のことです。どんなにあがいても、どんなに聖くなりたいと願い、そのように生きたとしても、どうしても拭えない赦されることのない罪のことです。
では、どうしたら赦されるのか? 2、3節に次のように語られています。岩波訳です。「なぜならば、キリスト・イエスにおける生命の霊の法則は、あなたを罪と死との法則から自由にしたからである。事実、律法が肉のゆえに弱くなり為し得なかったこと、[それを、神は成し遂げてくださった。すなわち]神は、自らの子を、罪の肉と似通ったかたちをとって、また罪のために、遣わし、その肉において罪を断罪されたのである」。 これは端的に言えば、キリスト・イエスによってもたらされた神様の命のことを言っています。
さて、1節の、「キリスト・イエスのうちにある者」という意味は、十字架にかかり、死んで葬られ、三日後に復活された救い主イエス・キリストを信じている者に、もたらされた神様の命のことを言っています。この神様の命に繋がっている者ということです。
ヨハネによる福音書1章12節~13節に「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、又人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。」
神の霊によって新しく生まれた者は、この神様からの新しい命に生きる者であり、この世の基準、この世の判断ではない、神様の基準、神様のみこころで現されている、この聖書を基準として、生きる者に導かれて参ります。聖書に、「汝の敵を愛せよ」とありますが、あなたの「敵」と言われているのですから、自分を苦しめ、悲しみを与えている人、どうしても愛することなど出来ないと思っている人のことです。その人を赦し、愛せよといわれるそのおことばの前に、己をさらけ出し、実は、この自分こそが、イエス・キリストの十字架によって赦されていると、気づかされ、「主よ、ごめんなさい。赦して下さい。この私こそが、傲慢でした。この私の高ぶりが、人を苦しめ、悲しませていたのだ」と示され、真実に悔い、主の前にひれ伏す時、主の一方的な赦しを戴き、愛の神様の命の中に招かれて、神の平安の中に生きる者へ招いて下さいます。
私たちの目に見える人生が、どんなにみすぼらしく、どんなに弱くあろうとも、天地の造り主なる神さまが、私たちを助けてくださり、赦し、愛してくださるのです。ですから、私たちの主イエス・キリストがなさったように、私たちも人を赦し、愛し仕えていく者とされて行きたいと願います。主を感謝する者へと育ててくださる神さまを褒めたたえます。