2017年7月16日 説教
聖書:ローマ人への手紙4章1節~8節
「福音の中心」から生かされる
青野太潮 平尾バプテスト教会協力牧師
神が義と認められるのは、その弱さと罪深さ、足りなさのすべてを内に含んだままの人間そのものです。決してそのいわば陰の部分を取り除いた「良質」の部分だけを義と認められるわけではありません。そのことは、神はまさに人間の弱さ・足りなさのうちにこそ働かれるということを、さらにまた神の完全な救いとは、何か現実の弱さ・足りなさを担った生身の人間とは質の異なったあり方を示しているわけでは決してない、ということを意味しています。
そのような「福音の中心」から、パウロはイエスの誕生についても、「神は御子を、女から生まれた者として、しかも律法の下に生まれた者として、送ってくださった」
(4章4節、私訳)と語ります。「女から生まれた」という表現は、「人間の貧しさと弱さとを強調するユダヤの表現であって、それゆえそれは、イエスを他の人から際立たせるものではまさになかった」(恩師のE・シュヴァイツァー先生)のです。パウロはまた、神は「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送った」(8章3節)とも語ります。これは、私たちがほとんど常に大前提にしているように思われるイエスの「処女降誕」物語とは、随分と異なった捉え方を示しています。「福音の中心」から生かされるとはいったいどういうことなのか、しばらくの間ご一緒に考えてみたいと思います。