(聖書箇所: 出エジプト記2章11~22節)
牧師 岩橋 隆二
自分が何者かを知ることは、非常に重要なことです。それが確かなとき、何をすべきかがわかるからです。モーセは何者でしょうか。ヘブル人なら奴隷であり、エジプト王女の息子ならば支配者です。ここには40歳になったモーセがアイデンティティの混乱を経験する様子が出てきます。
ある日、モーセは、ヘブル人が虐待されるのを見て、エジプト人を打ち殺しました。その瞬間、彼は自分がヘブル人だという同質感と連帯感を感じたはずです。しかし、翌日、彼はヘブル人から退けられます。ヘブル人にとってモーセは同族ではなかったのです。この後、モーセには自分が何者かを知るための長い旅路が始まります。第3の場所であるミディアンにおいて、その旅の終わりに、彼は自分が何者であるかを知ることになります。
ミディアンの井戸の側でモーセは、女性たちに乱暴に振る舞う羊飼いたちを追い払い、そのことをきっかけにリウエルのもとに身を寄せることになります。モーセは彼の娘チッポラと結婚し、リウエルのもとで羊飼いとして生活を始めます。
当初、モーセはエジプト人として見られていました(2:19)。それは彼の身なりや出で立ちから、そのように判断されたのでしょう。けれどもその後、ヘブライ人としてでもなく、またエジプト人としてでもなく、一人の羊飼いとして、まるで過去の自分を打ち消すような新たな人生を歩み始めたのです。こうした彼の複雑な心境は、チッポラとの間に生まれた息子に、寄留者(一時的によその土地に住む者)を意味する「ゲルショム」という名前を付けたところにも現れています(2:22)。いわばモーセは、空っぽになった状態で、根を持たない存在としての自覚をもって、「寄留者」としての人生を始めるのです。
神様がミディアンの地に逃れたモーセに真っ先に家族を与えられたのは、モーセに、同胞であるヘブル人を顧みる責任があることを教えるためでした。妻チッポラと息子ゲルショムにモーセが必要なように、エジプトで苦しんでいるヘブル人もまた、モーセが責任を持つべき大切な家族であることを悟らなければならなかったのです。
「人は、そして私はいったい何のために生きるのか。私の生きる目的は何か」。これは私たちが人生において一度は必ず向き合わなければならない問いです。私たちは日々生きる中で、なぜ生きるのか、なぜ学ぶのか、なぜ働くのか、その意味を繰り返し問い続けながら生きています。意味のないことのために生きることほど苦痛なことはありません。自分のしていることに何の意味もないとすれば、私たちはたちまち生きる気力を失って絶望の淵に立つことになるでしょう。それは人が意味を問う存在であるからです。けれどもその一方で、この問いに対して、はっきりとした答えを断言することのできないもどかしさの中にある、というのが私たちの現実の姿なのではないでしょうか。
ウェストミンスター信仰基準の小教理問答第1問では、あえて人生の目的を問うています。究極の問いが私たちに向けて発せられています。「問:人のおもな生きる目的は何ですか。答え:人の生きるおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。答えがちゃんと用意されています。この問いかけとしっかり向き合いながら、人生の目的を尋ね求め、その答えを受け取っていきたいと願います。