2017.2.12説教要旨 題:「聖霊への罪」 聖書:マタイ12:31~32
牧師 岩橋 隆二
12:1~14節の安息日論争から「パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した」(14節)。イエス様とパリサイ人たちとの関係は抜き差しならぬものとなっていきました。そして、彼らはイエス様の癒しの業を見て、悪霊の力で事を起しているのだと非難します。しかし、イエス様自身は、神様がなさる霊による働きに対しては、誰も言い逆らうことは出来ないと宣言されます。
聖霊なる神様は、驚くべき力によって救いのみ業をなさいます。イエス様が「神の御霊」によって、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人を癒されると、人々の反応は二つに分かれます。一方は神様の力を認める者たちで、イエス様を「ダビデの子」(メシヤ)と告白します。もう一方は頑ななパリサイ人たちで、イエスが悪霊のかしらベルゼベルの力で悪霊を追い出していると非難します。イエス様が来られ、新しい時代が到来しました。悪霊が出て行き、破壊された人格が癒され、不完全なものが完全になりました。神の国の主人イエス様は、聖霊の力で悪霊を追い出す力強い統治者です。悪魔は殺して滅ぼそうとしますが、イエス様はいのちを更に豊かに得させようとされます。
私たちがこの世で生きて行く時に、恵みの時もあれば、試練の時もあります。栄光と勝利もありますが、苦難と失敗もあります。聖霊に満たされる時もありますが、挫折と試練の中で落胆する時もあります。試練に倒れない人はいません。しかし、試練は私たちを練り、謙遜にし、より強くさせる機会にもなります。試練は人々を差別せず、時と場所を選びません。試練は一度で終わらず、試練の前で自由な人もいません。試練は確かに困難でつらいものですが、試練を通過すれば、私たちはより大きな成長と成熟を経験します。サタンは、さまざまな試練や誘惑や苦しみを通して私たちを破壊し、殺そうとしますが、神様はそれを通して私たちの信仰と人格を整えてくださいます。
この世の人たちは状況が不利であれば妥協し、利益になることであれば主張します。イエス様のように極端な主張をすれば何ら益はありません。自分の味方でない者はすべて自分に逆らう者だと言われるイエス様の態度は、人々には極端で、排他的で、利己的だと見なされます。しかし、霊的な意味においては、これ以上明白な真理はありません。イエス様を選ぶか選ばないかのどちらかしかありません。この場合はイエス様に従うが別の場合は従わないといった中間はないのです。イエス様を選ばなければ、次の選択はありません。イエス様と共に歩まないなら、イエス様に逆らうことになるのです。このことを知らない時は、イエス様に逆らう言葉を口にできますが、神様がこの明らかな霊的現実を知らせようと、直接聖霊によって働き、示すとき、聖霊に逆らうなら赦されません。赦しの可能性が全くないということは、聖霊に逆らう者の根本がサタンにあるということです。32節後半の〈聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない〉の意味をしっかり知って歩いてまいりましょう。