2016.7.10説教要旨 説教題「苦難と立ち向かう」 ヨブ記1章9節~11節
福岡城西キリスト教会主事飛永永子
私たちは、熊本地震の恐ろしさを覚え、このような時、聖書では「苦難」を「ヨブ記」から聞き、皆さまと共に考えたいものです。
ヨブ記のヨブとはまず、アラビアあたりの裕福で信仰の篤い、正しい人の家庭の人であります。しかし、天上の神の前にサタンが来て、「神はヨブをほめるが、ヨブでも利益もないのに神を崇めない」といい、神の許しを得て、ヨブのすべての財産を打ちました。しかしヨブは動揺しませんでした。次にサタンは神の承諾を得て、ヨブを打ち、全身腫瘍に犯されました。ヨブは乾いた灰の中に座って身をかき続けています。ヨブの妻は耐えきれずヨブに神を呪って死ねというほどです。ヨブの三人の友人が彼の禍を聞いて見舞いに来ましたが、あまりの惨状に声をあげて泣きました。この禍はヨブが原因ではありません。ヨブは全く神の前に正しい人で、貧しい人、目の不自由な人の助けになり、死に行く人をも助けた人です。しかし、人々はヨブの状況があまりひどいので、何か神に隠れて悪いことをしたために神から罰せられたと判断し、ヨブを蔑み、又暴力をもって迫害します。残忍であり、無慈悲な対応をします。あまりの苦しさにヨブは神に訴えますが、応答はありません。
ヨブも以前は、忠実に神に仕えていれば幸福が来たり、罪を犯せば不幸が来ると考えていましたが、自分は、罪を犯した覚えもないのにこのような不幸が望んできたのはヨブにも納得がいきません。ヨブの苦しみは絶頂に達し、自分自身を弁護することはできなくなりました。其のときヨブは自分を贖う方、キリストのような方が出て彼を弁護してくださるという信仰に達しました。(19章25節~)
このように、立派な人間であるヨブの罪なき苦難はユダヤ教の中で哲学的にも深められ「弱さ、苦難、それ自体が尊いことである」ということにいきつきました。そこから、苦難の僕・イエス・キリストに行き着くことになります。カール・バルトという有名な神学者は「ヨブをイエス・キリストの一原型として――真の証人であるイエス・キリストの証人として、語ることが許されるであろう」と言っています。これは苦しみと嘆きにおいて、ヨブはイエス・キリストの証人とされています。ですから、ヨブ記はキリスト教の源流の一つであるわけです。
私たちが苦難に直面し、それに苦しむとき、苦難から逃れの道を神に祈るでしょう。
しかし、一方、苦難は私たちにとって、恵みの面もあることは、長く生きてきたこの人生において、確実に言えることではないでしょうか。私たちの神の国への道のりは苦難に満ちていますが、その道のりは確実に前進し、私たちが歴史を踏みしめて進んでいくことが分かっているのです。