聖書箇所:ヨハネの黙示録11:14~12:6 説教題:「荒野で味わう神の守り」
牧師 岩橋隆二
私たちは死後の世界について、どこで知ることができるでしょうか? 聖書はどのように語っているでしょうか? 黙示録の21章と22章ではその天国について語っています。「1私がまた見ていると、新天地があった。今までの天と地は過ぎ去り、海はもう無かった。2私がまた見ていると、聖い都、新しいエルサレムである教会が、夫であるキリストのために飾られた花嫁のように用意を整えて、神のみもとから出て、天から降って来た。3その時、私は、御座から大きな声がこう言うのを聞いた。『さあ、神様の住いが人々の中にある。神様は人々と共に住み、人々は神様の民となり、神様自ら人々と共におられて、彼らの神様となり、4人々の目から涙を全くぬぐい取ってくださる。もう死も、悲しみも、叫びも、苦しみも無い。今までの世界はすべて過ぎ去ってしまった。』」(黙示21:1~4。現代訳)。私たちが一番恐れている死も、悲しみも、痛みに耐えきれずに苦しみ悶える事も無い、皆さん、そのような世界に行きたくありませんか?
21章1節「私が見ていると、新天地があった。今までの天と地は過ぎ去り、海はもう無かった」。ヨハネにとって海とは、カオス(ギ語。混沌・無秩序)と悪を表現する比喩なのです。。「もはや海も無い」という意味は、混沌、無秩序、悪が無い世界ということです。
女が逃げた「荒野」は、とても意図的な表現で、出エジプトの過程を体験したイスラエルを思い起こさせます。荒野の目的は女を育てるためで、その期間は1,260日で、これは神殿の外の庭が踏みにじられる42カ月の期間であり(11:1~2)、ふたりの証人の預言の働きの期間でもあります(11:3~13)。つまり、この期間はイエス様の初臨と再臨の間の荒野のような世で、神の守りと導きと臨在の中で養育される恵みの期間であると同時に、霊的な戦いの期間です。この一人の女は、キリストの花嫁である教会を指しています。その女が子を宿しており、産みの苦しみと悩みのために泣き叫んでいました。教会がキリストをはらむということは、産みの苦しみと悩みとをなめる(苦しい体験をする)ということです。
ヨハネの黙示録を読んでいくと、自分の信仰がいかにあまいかが問われます。この世に於いて、イエス・キリストを唯一の救い主であるという信仰生活をしていこうとすると、そこに闘いがあり、産みの苦しみが生じます。この地上というのは、決して私たちが信仰し易い世界ではありません。世の中に迎合し、気が向いたときだけ教会に行くという姿勢では、イエス様を信じるような気持にしてくれるものではありません。12章1節に「月を足の下に踏み、その頭には十二の星の冠をかぶっていた」とあります。そういったカオス(混沌・無秩序)の世界を、そういったこの世の生活を踏み(排し)、自分の信仰を告白していくには、当然困難なことも、損なこともあります。しかしそれをしていくのが信仰ではないでしょうか。
信仰告白というのは、イエス様の教えを第一にしていくということです。その時に産みの苦しみが伴うのは当然です。私たちはイエス様の再臨までの間、荒野に置かれています。その目的は、私たちが神様の守りと導きと臨在とを知り、霊的な勝利を得るためです。霊的に敏感になり、霊的な戦いによって得る勝利のゆえに、さらに神様を信頼する者となってまいりましょう。