聖書箇所:サムエル記上23:1~5 説教題:「重ねて主に問うた」
岩橋隆二
21章から27章までは、ダビデに対するサウル王の妬み心から生じた殺意から逃れる、その逃避生活が描かれています。ダビデは長い逃避生活を始めます。ゴリヤテと戦った当時は「少年」と呼ばれる歳でしたが(サム上17:33)、サウルが死んでヘブロンで王となったとき30歳(サム下5:4「ダビデは王となったとき三十歳で、四十年の間、世を治めた」)であることから、大体10年ほどの期間、荒野で逃避生活をしていたものと思われます。
今日の聖書箇所サムエル記上23:1~5は、ダビデがケイラの町を救う場面が描かれています。ダビデはユダの地、ケイラを攻めて来たペリシテ人と戦うべきかどうかを神に伺い、そのようにせよという答えをもらいます。部下たちが反対すると、ダビデは再び神の御心を尋ね求めました。サウルに追われて命が危ういときにも、自分の安全に執着せず、神の御心に従おうとするダビデの心が、とても尊く思われます。
「ペリシテびとがケイラを攻めて、打ち場の穀物をかすめています」という人々のこの知らせを受けたとき、ダビデは主に向かって「わたしが行ってこのペリシテびとを撃ちましょうか」と問うたわけです。ペリシテ人の襲来はイスラエルにとって危急な事でした。なんとしてもそれを食い止め、追い返さなければならない切迫した事態が、目の前にありました。しかし今のダビデは手兵わずかに四百、サウルを恐れて逃げ惑う哀れな一群にすぎないのです。このときダビデは全く自信がなかったと思われます。ところが、主は彼に答えて「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」と言われた。するとこれを聞いたダビデの家来がつぶやいた、「われわれは、ユダのここにおってさえ、恐れているのに、ましてケイラに行って、ペリシテびとの軍にあたることができましょうか」。これは一人彼の従者の意見ではなく、主の言葉を聞いた彼自身の思いでもあったに違いありません。そこで、彼は重ねて主に問うたのです。
すると主は「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」と言われました。ダビデは立ってケイラに下り、ペリシテびとと戦い、主が言われたように彼らを撃ち、ケイラの住民を救うことができたのです。
ダビデが重ねて主に問うたという事実は、私たちに教訓を与えます。彼がもし、自分の判断でペリシテ人との戦いに出て行くのであれば、重ねて主に問う必要はなかったでしょう。しかし、彼の出撃は、彼の判断によったものではなく、彼の自信に基づいたものでもなく、主の言葉によるものであったのです。
私たちが信仰生活を送っていく場合、ともすると自分の都合や考えを第一にしていることが往々にしてあります。神様の言葉が自分の裁量によっていつも左右され、割引きされ、抹殺されているのではないでしょうか。そこに、私たちが主に重ねて問う、祈りの必要性を覚えるのです。主に伺いをたて、主の言葉を聞いてそれに従って行こうとする時、私たちは何度も何度も主に問わずにはおれない筈です。
山の頂上に登って見下ろすと、道、川、町、森などが、まるで手に取るようにはっきり見えます。このように、神様の目には、サウルが何をしても全てがお見通しです。神様は私たちが座るのも立つのも、私たちの動きの全てを一つ一つ見ておられます。全てを知っておられる神様に、完全に拠り頼み、ただゆだねてまいりましょう。