【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年6月19日説教要旨
聖書箇所 ルカによる福音書16章19-31節
「金持ちとラザロ」における罪―「無関心」
片山 寛
このちいさな物語に出てくるお金持ちは、死後、自分が地獄の火の中でもだえ苦しんでいるのを発見してとします。しかしこの物語から読みとれるかぎりで言えば、彼は生前にそれほど深刻で破滅的な罪を犯したようには見えません。彼がやったことと言えば、要するに自分のお金でぜいたくに遊び暮らしたというだけのことなのです。そのお金を誰かから、たとえばこのラザロから盗んだとか、誰かの苦しみを見て楽しんで残酷に遊んだとか、そういう悪事はここには書かれていないのです。また彼は、自分の5人の兄弟たちの運命を思って心配してやってもいます。ふつうの意味で言えば、愛情に欠けた酷薄な人間であったとは思えないのです。それでは彼の「罪」とはいったい何だったのでしょうか。
ここでご紹介するのは、私が好きな作家エリ・ヴィーゼル1928-2016の語った言葉です。ヴィーゼルは、ハンガリー出身のユダヤ人作家ですが、少年時代に家族とともにドイツの強制収容所に収容されて、最初に母親と妹がガス室で殺され、父親も収容生活の中で病死するという苛酷な体験をした人です。戦後、彼は『夜』、『夜明け』(共に、みすず書房)、自伝『しかし海は満ちることなく』(朝日新聞社)などの、素晴らしい作品を書いて、ホロコーストの恐ろしさを訴えました。
愛の反対は憎しみではない
「私はいつも信じてきたのですが、愛の反対は憎しみではありません。信仰の反対は不信仰ではありません。希望の反対は絶望ではありません。これらの反対はすべて「無関心」Gleichgueltigkeitなのです。「無関心」というものは、一連のプロセスの始まりではなくて、その終り(結果)であるのです。」
―Elie Wiesel