聖書箇所:ヨハネ9:35~41 説教題:「霊的な盲人」 牧師 岩橋隆二
盲目だった人が福音を伝えても、パリサイ人たちは罪にさえぎられて真理を悟れません。イエスさまはこのしるしを通してパリサイ人たちに霊的覚醒とチャレンジのメッセージを与えられますが、モーセを知り、律法を知り、神を知っていると言うパリサイ人は、肝心なときに神が遣わされたメシヤがイエスさまであることを悟れません。
肉眼では全てのものを見ていながらも、イエスさまを神の御子、メシヤとして信じない人々は、結局さばきを受けることになります。自分の霊的な無知を認めない人は、霊的な盲人であり罪人です。罪はイエスさまを見、知り、信じるようにさせる聖なる招きと、それによる新生とを遮る障害物なのです。
生まれつき盲人だった人が、イエスさまによっていやされました。いやされたその目でメシヤであるイエスさまを「見て」信じました。イエスさまは安息日遵守に執着し、律法の形式に捕らわれ、イエスさまがキリストであることを悟れないパリサイ人こそ「盲目」であると指摘されます。
わたしたちはどうでしょうか。肉的に見えていることが当たり前になっているがゆえに、形式にこだわり、知らず知らずのうちに「パリサイ人」になってはいないでしょうか。世の光であるイエス様を正しく見つめているか再度確認したいものです。
皆さんもご存じの方も多いK姉妹のことについて話します。私は出身教会の筑紫野二日市教会に約9年間在籍しましたが、その間、K姉妹と主にある交わりを持つことになりました。彼女は小学校下級生の頃失明されており、鍼灸師として身を立ててこられた方です。彼女の教会生活はとても熱心で、祈祷会や教会学校でよく一緒になりました。私は彼女の目が不自由な故の鋭い言葉に、時として驚き、また信仰の深さに励まされたことが何度もありました。その一つが、私が成人科の教師をしていた時のY姉妹の発言でした。「永遠のいのち」について話し合っていた時のことでした。重い難しいテーマですので、もう一つ確信が持てない意見が多かった中で、K姉妹が整然とみ言葉を述べられたのには驚かされ、感動すら覚えました。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17:3)。そして更に続けられました。「それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」(ロマ5:21)。
この方は、見えないが故に見えている、真理に生きておられる。私たちは見えるが故に見えていない。そのことを強く思わされた出来ごとでした。
パリサイ人たちは自分たちが健康な目を持っていると自信があったため、かえって霊的な目が見えなくなり、罪のうちに留まるしかありませんでした。そして主のさばきの対象になってしまったのです。「あなたは霊的な盲人ですか」という聖書の問いかけに、今日から始まります新しい1週間、向き合ってまいりましょう。