2015.7.5(第1主日)説教要旨 説教題:「高慢な心」 出エジプト記5章1~14節
牧師 岩橋 隆二
聖書には高慢になった人間のことが随所に出て来ます。最初に思い浮かぶのは、ヤコブ4:16の次の御言葉です。「ところが、あなたがたは誇りたかぶっている。このような高慢は、すべて悪である」。同じくⅡコリント12:7は、有名な御言葉です。「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである」。パウロの肉体のとげは、迫害・肉欲の誘惑・悪性の眼病・てんかん性の病気等々言われていますがそれはともかく、彼はこのとげが取り除かれるようにと三度も祈ったとあります。それに対する神の返答は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(12:9)でした。パウロが肉体の苦痛からのがれられるようにと必死に祈ったのに、弱いのがいいのだと主は言われたのです。
「高慢」の言葉の意味は、自分が優れていると思って、他をあなどることです。より分かり易く言えば、自己の才能、能力、容貌などがすぐれているとうぬぼれることを言います。似た言葉に「傲慢」という言葉があります。思い上がって横柄なこと。人を見下して礼を欠くこと、また、そのさまを言います。「不遜」という言葉も関連して出て来ます。思い上がって、いばっているようすを言います。皆さんはこのような「高慢」「傲慢」「不遜」といった言葉と対する時、どのような思いを抱かれるでしょうか。あいつは高慢ちきだ、傲慢だ、不遜だと周りの人に目を向けられるでしょうか。あるいは自分自身に目を向けられるでしょうか。
主である神様は、イスラエルの人たちをエジプトから救い出すために、モーセを選びました。モーセは、お兄さんのアロンと一緒に、エジプト王パロのところに行って言いました。「私たちの主である神様が、王様にこう言っています。『イスラエルの人々が、荒れ野で礼拝をささげるために、送り出してあげなさい』」。それを聞いたパロは激怒しました。パロはすぐに家来を呼び寄せて言いました。「イスラエル人は、とんでもない怠け者だ。イスラエル人の仕事を、これまでよりも重くする。そうすれば、『礼拝をささげたい』と、くだらない話をすることもなくなるだろう」。
主である神様は、モーセに言いました。「わたしは約束したとおり、必ず、力強い手によって、イスラエルの人々を救い出す」。パロは主なる神様を知りません。イスラエルの人々も主なる神様をよく知りません。モーセも思っていたようにうまくいかないので、不安で心がいっぱいです。しかし、この時、主である神様は、約束どおりにイスラエルの人々を救おうと決心されていたのです。
下役たちと民の厳しい批判を浴びたモーセは直ちに主のもとに帰って、訴えます。「帰って」は岩波訳では「向き直り」と訳されています。試練の中に主が示そうとしておられるご計画をモーセが祈り求めたと受け取ることができます。窮地に立った際にモーセは主に向き直り、主の言葉を求めたのです。
目の前の問題に目が縛られると恐れにとらわれますが、神に目を向けるなら平安が臨みます。私たちキリスト者が仰ぎ見るものは万物よりも偉大な神様、イエス様です。
「誇る者は主を誇るべきである。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。」(Ⅱコリント10:17,18)。