私たちは、人生を生きている限り多くの喜びに出会います。しかし、アクシデント、つまり、突然の思いがけない不幸な出来事にも出会います。皆さんもこれまでの人生で、そのような大小様々ないろんな経験をされてきたと思います。しかし、そのような不幸な出来事が、往々にして霊的な成長につながることがあります。
ヨセフはヤコブの12人の息子の中の11番目で、ラケルの生んだ最初の子でした。彼はヤコブの老年になってからの子で、しかもラケルの子であるゆえに、ヤコブの特別の愛を受けました。そのことが兄たちの憎しみを買い、ついに彼らによってキャラバン(砂漠を行き来する商人)に奴隷として売られ、エジプトに連れて行かれました。ヨセフは想像を絶する苦痛を味わいました。すべてのことに正しい行いをした預言者ダニエルは、獅子の穴に投げ込まれるというはずかしめを味わいました。今日の聖書の箇所に出てきますサウロは、殺気をみなぎらせてダマスコに行く途中で、突然目が見えなくなり、地を転げまわる恥辱を味わいます。しかし、これらの人たちは、最終的には、すべての人々よりも高められました。
殺気をみなぎらせてずんずんと北の方向に進む一つの集団がありました。その先頭に立つのはサウロです。サウロには、大事な使命がありました。ダマスコの町に行き、イエスをキリストと信じる人を見つけて、こらしめようと先を急いでいました。サウロは、クリスチャンを捕まえ弾圧することに、異常なほどの情熱を燃やしていました。ダマスコの町がすぐ近くに見えてきた時、突然、ピカッと天から強い光が射してサウロの周りを照らしました。サウロはびっくりして道端に倒れ込みました。あまりの強い光に目を開くことも出来ません。すると、どこからか声が聞こえます。サウロだけに聞える不思議な声でした。でもあたたかな声でもありました。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(4節)。思わずサウロは言いました。「主よ、あなたはどなたですか」。すると、こんな言葉が返ってきたのです。「私はお前が迫害しているイエスである。起きて町に入りなさい。そうすれば、お前のなすべきことが告げられるであろう」(5,6節)。サウロは、地面から、よろよろと起き上り、目を開けましたが、なんにも見ることが出来なくなっていました。サウロは胸を張って先頭を行くはずだったのに、今は周りの人に手をひかれ、ダマスコの町まで行きます。町に着いたものの、三日間、なにも見えず、なにも飲まず、なにも食べられず、ただ一人、サウロは祈っていました。
6節を新改訳聖書は次のように訳しています。 「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」。
私も、10年前の余命2カ月を医者から告げられたこと、あの絶対絶命のアクシデントがあって、マタイ28章19,20節の「大宣教命令」を果たすことを示され、その使命に生かされています。
皆さん、私たちクリスチャンンの生きる目的は何でしょうか。それは、はっきりしています。主の栄光を現すことです。皆さんが苦難に会った時、厳しい現実に出会った時、きっと「あなたのしなければならないこと」を主から告げられる筈です。その時に初めて揺るぎない人生が与えられます。
2015.4.12(第2主日)説教要旨牧師 岩橋 隆二