【聖書箇所朗読】
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2024年11月17日説教要旨
聖書箇所 ルカによる福音書15章1~7節
あなたは何処に?
原田 寛
今朝のお話は「迷子の小羊」のたとえからです。その背景は、徴税人や罪人がイエスから話を聞こうとして集まっていくのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者が「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い、それに対して、イエスがこの「迷子の小羊」のたとえが語られたのでした。
多くの人たちは、このお話から、自分自身のことを探してくださる主イエスの存在に気付かされて、クリスチャンになった人が少なくありません。そして、今もなお、示され続けている御言葉です。
徴税人や罪人たちは、自分から進んでそのようになったのでしょうか。罪人は、複雑な律法から生まれました。殺人や盗みなどのいわゆる犯罪とは別に、罪とよばれる事柄が日常の中には存在しました。たとえば、イエスの歩まれた時代は、ローマ帝国支配の時代。ユダヤ社会もローマの政治下でとりあえず安定していたと考えられます。そのローマ政府のために税を徴収したのが、徴税人でした。また、ローマ帝国がパレスチナを治めるためにカイザリアをローマの町を建て、将軍が常駐するところとなりました。ユダヤにも多くのローマ兵が存在するところとなり、ローマ人と向き合って歩む人たちも存在するようになるのです。特に、ユダヤ教下では、汚れた食物とされていたものも扱うことになります。ユダヤ人社会の中には、徴税人の他にそのような人たちが存在しました。ファリサイ派の人々は、律法主義に立って彼らを罪人だと言ったのでした。ユダヤ教社会が作り出している目的、方向性に対して、逆行していたと考えられます。私たちの目から見れば、理不尽極まりないことにみえるものだと思われます。イエスは、このようにして社会が作り出した「迷子の小羊」と向き合っているわけです。
羊飼いは、迷子の小羊を様々な障害を乗り越えて探し出します。そして、連れ帰って、迷子の小羊の存在を仲間と喜び合います。喜びを分かち合う中では、小羊が「なぜ、迷子になったか」も分かち合われたことでしょう。
今日的に深読みしたいと思います。羊飼いとはみ子イエスのことと考えられていますが、そこを羊飼いとして歩む教会員の「ひとり」としたらどうでしょう。そして、探し出したこととそのことを喜ぶ仲間としての「教会」とします。「教会」は探しに出たその「ひとり」を「待つ」存在となります。探し出そうとする者は、キリストの愛ゆえに探すのです。その思いを理解し、共に祈ることもできるのが教会。そして、その祈りの結果と恵みを分かち合うのも教会です。
「あなたは何処に?」は、迷子の小羊を今も探している教会の思いを現わしている祈りの言葉です。探している人が見つかったら、連れてきてください。祈りの答えを共に喜びましょう。