「いのちの主を知らしめた災い」2015.7.12説教要旨 出エジプト記12:29~36
牧師 岩橋 隆二
6章から11章までは、パロの高慢さに対して具体的な九つの災いが記されています。そして今日の箇所12章は、十番目の決定的な災いの場面です。
災いの最初は、血のわざわいです。ナイル川を血で染めるというものでした。ナイル川はエジプト人にとって命とも言える生活の水です、それが血で腐って飲めなくなったのです。エジプトの民にとっては大変な事態が生じたのですが、パロはお抱えの呪術師によって同じ秘術が出来ることを知ると、人間も神様が行われたことをいくらでも行えると高ぶった姿を見せました。堕落した人間は神を畏れ敬いません。2番目のわざわいは蛙です。パロがイスラエルの民を出て行かせないと、神は蛙でエジプトを打たれました。ナイル川から出て来たものすごい群れの蛙の鳴き声は、エジプト全土を恐怖に震えさせました。パロは一旦蛙の群れに降伏します。そしてパロはモーセに祈りによって蛙がいなくなるようにしてくれと頼みます。モーセが祈ると一瞬にして蛙は死に絶えました。一息ついたパロは再び頑迷になります。
3番目のわざわいは蚋(ぶよ)です。神様は、最も優れた民であると自負していたすべてのエジプト人が、服を脱いで蚋を捕まえなければならないという恥ずべき場面を演出されたのです。そして4番目が虻です。エジプトの全土にわたり、地は虻の群れによって荒れ果てた、とあります。5番目の災いは、エジプトの家畜に激しい疫病が下されます。6番目の災いは、エジプト人と獣にうみの出る腫物がとりつくというものです。7番目の災いは、エジプト建国以来の激しい雹を降らせられます。8番目は蝗の災いです。9番目の災いは暗闇のわざわいです。主はここでもパロを頑なにされます。九つ目のわざわいの後も決して心を改めないパロに対し、主は最後のわざわいを下すと予告されました。それは、将来エジプトの王となるパロの初子から貧しい女奴隷の初子、また家畜の初子に至るまですべて死ぬというものでした。いまだかつてない悲しみを引き起こす、恐ろしい災いです。主は、この災いによってエジプトが大きな被害を被り、イスラエルの民がこの国から出て行くことになるとおっしやいました。
モーセを通して預言されていたことが実現しました。最後の災いが起こったのです。パロは、既に九つの災いに遭っています。しかし、パロはモーセの言葉に耳を傾けませんでした。それは、これまでの九つの災いが、パロの身に直接死が迫ってくることがなかったからです。つまり、自分の身に直接危険が迫らなければ、主の裁きの恐ろしさを知ることはなく、主の言葉に耳を傾けることはないのです。ですから主がエジプトの国の全ての初子を打たれた時、パロは不意をつかれたように慌てるのです。真夜中に大いなる叫びがエジプト中に響き、死にゆく人を見たパロは、自分にも死が迫っているとの思いへとかられ、パニック状態となります。パロは死にたくない一心から、モーセの言うことを聞き入れます。こうしてイスラエルによる出エジプトが始まるのです。
ではこの時のイスラエルの人々は、どのような思いだったでしょうか。パロのようにパニックに陥ったでしょうか。いいえ、イスラエルの民は、普段と同じように落ち着いていたのです。それは主なる神様がすでに語られていた言葉に耳を傾け、その通り行動していたからです。私たちも普段からみ言葉に従って行動していたら、急に問題が生じても落ち着いておられるということです。ここにエジプト人とイスラエル人との違い、つまり主による裁きにあう者たちと、主による救いに与る者たちの違いが生じてくるのです。主のみ言葉に従わない者には絶望が、主による救いを信じている者には、希望と勇気が与えられるのです。