2015.8.16説教要旨 題:「いのちは神にかかっている」 聖書:出エ17:1~7
牧師 岩橋 隆二
イスラエルの民はシンの荒野から旅立ち、シナイ半島を南に下り、レフィディムで宿営しました。そこには民の飲み水がありませんでした。飲み水をめぐっては、前々回の説教箇所で、マラの水が苦くて飲めなかったということがありました。ここですでに民とモーセとの間で衝突が起こっています。それほどに荒野の旅路における安全な水の確保は死活問題です。飲み水の不足という生命の危機に立ち、民はモーセに「我々に飲み水を与えよ」と詰め寄ります(17:2)。水の不足という危機に立つのはモーセも同じです。無理難題を突きつけられたモーセは、民に「なぜ、わたしと争うのか。なぜ主を試すのか」と問いかけます。イスラエルの民がモーセに不満をぶつけ、彼と争うことは主ご自身の約束への疑いでもあり、主を試みることを意味します。
しかし、民はこのモーセの言葉に耳を傾けず、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしの子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(17:3)と不平不満をモーセにぶつけます。モーセは「彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」(17:4)と身の危険を感じて主に叫び声を上げます。もはや飲み水がないという危機の中で、イスラエルの民とモーセは互いに死の恐怖によって、自分たちの立つべき場所、より頼むべきお方が見えなくなっていきます。
命の危険を感じるとき、さらに神に信頼すべきです。命は神にかかっているからです。イスラエルの民は、神の導きによってエジプトを離れ、何度も神の奇蹟を体験しました。にも拘らず、依然として神に拠り頼まず、自分の安全と欲求を満たそうとします。欲は罪につながり、最後には死につながります。
それで主は民の渇きとモーセの叫びを聞かれ、命じられます。それは民の不平の処理の方法ではなく、民とモーセの渇きを潤す方法です。主は民の長老たちを連れて、民の前を進むように命じます。長老たちは何もないところに水を与える主の御業と、主がモーセに与えたリーダーシップの証人と言えます。そして、主はかつてパロの前でナイル河を血に変えた杖(7:14~24)を持ってくるように命じ、モーセが杖で岩を打つと岩から水が出て、飲み水が与えられ、民は水を飲むことができたのです(17:5~6)。
しかし、ここで主は、水を求めて打つべき岩はホレブの岩であり、その岩の上でモーセの前に立つと言われます(17:6)。ホレブは初めて主がモーセに語りかけられ、召命を与えられた場所です。主がホレブの岩に立つということは再び主の召命と助けがモーセに与えられたことを意味していると考えられます。その岩を打つことによって水は与えられたのです。この出来事は民の喉の渇きを飲み水によって潤しただけでなく、民との間で争い、民の不信の中で死の恐れがあったモーセを再び励まし、力づけ、心を潤したのです。そして、これはイスラエルの民がモーセを通して主の御業を経験するためにも重要な出来事であり、また主の契約に対する真実とイスラエルの民への守りの確かさをあらためて覚えるための経験でもあったのです。