【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年11月8日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書11章25~30節
まことのやすらぎ:同伴者イエスの発見
東福岡バプテスト教会
松見 俊 協力牧師
「すべて重荷を負って苦労している者は、もわたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」この招きの言葉は実に多くの人を慰めてきました。教会の案内看板にこの聖句が書かれている教会も多いのではないでしょうか。
今日、確かに、私たちは疲れています。「まことの安らぎ」、「たましいの平安」こそ一人一人の切実なテーマです。そんな社会に生きる私たちに主は今朝、呼びかけておられます。「わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
でも、なぜ、イエスさまは私たちに休み、安らぎを与えることができるのでしょうか。主はご自分で「柔和で心のへりくだった者だから」と言われます。しかし、これは自分で言ってはいけない言葉ではないでしょうか。実は、「柔和」(プライオス)はマタイ5:5と21:5に登場し、両方ともヘブライ語聖書からの引用です。ヘブライ語の「アーナーブ」は90%以上、「重荷を負わされ、貧しく、低くされた者」と翻訳されています。
主イエスも十字架の死に至るまで重荷を負い、苦労の連続の生涯だったのです。だからこそ人の痛みが分かるのです。「柔和な者」とは重荷を負わされ、低くされているがゆえに、他者の悩み、悲しみ、苦しみに共感できる人のことです。
驚くべきことですが、主が私たちから重荷や課題を取り去って下さるから安らぎが与えられるのではなく、キリストが同じ「くびき」を背負って同伴してくださる、この事実を知るゆえに安らぎが与えられるというのです。私たちは決して一人ではないのです。課題を投げ出すのではなく、主イエスと共に担う、同じ「くびき」を負ってくださる主イエスを発見することでまことの安らぎが与えられるのです。