【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2025年10月19日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書6章9節
み名が聖とされますように
原田 寛
αγιασθητω το ονομα σου.とギリシャ語でいいます。ハギアスセトウ ト オノマ スー 聖とされる 名が あなたの ということです。主イエスは、祈るときに、父なる神が「あがめられますように」、「聖とされますように」と祈りなさいと命じています。天地創造の絶対的な神ならば「聖」として当然、「あがめて」当然のことではないでしょうか。しかし、主イエスは、「あがめられますように、聖とされますように」と命じました。
神は、どこかに置かれるような方でなく、上の方で下々をただ見下ろしておられる方でもなく、ただ「神」という呼び名を与えられているという方ではなく、リアルに共におられる方です。共におられる方だから、私たちが見ていること、考えていること、だから、祈る者に、求める者に、応うじられ、神が神であられることを表わすことがおできになります。私たちは、神がおられるのに、それを十分に理解していません。主の祈りを教えられている私たちは、信じているといいつつも、忘れたり、分からなかったり、無視したり、知らなかったりいたします。
「聖とされますように」というのは、そんな私たちが父なる神を知り、神をあがめるようになるということです。長年、信じて神と共に歩んできている者にとっても、まだ、知らない、理解していない「父なる神」の一面に出会うこともあるでしょう。その出会いには、忍耐することや失うこと、後退すること、弱体化することなどが含まれています。
サムエル記下21章にこのようなお話があります。ダビデ王朝時代のイスラエルに3年の飢饉がありました。その原因は、ダビデの前の王・サウルの時、サウルがギブオン人を殺害したからだということでした。飢饉によって困っているダビデやイスラエルの民の問題ではありませんでした。ヨシュア記9章15節以下によりますと、イスラエルとギブオンの間に神のもとで契約が結ばれており、ギブオン人はヨシュアとイスラエルの下で仕える者として存在することになっていました。サウルは、イスラエルとユダに対する熱心さから。神のよって結ばれた契約を破ってしまいました。ダビデの時代、イスラエルとギブオン人の間には何の問題もありませんが、神は、イスラエルと共におられることを表して、神のもとに在る「失われた命」と「隠れた罪」の意味を表されたのです。ギブオン人は、サウルに対して並々ならぬ思いを引き継いでいました。ダビデは、悲しみいだきつつサウル家の生き残りから7人を選抜し、ギブオン人は彼らを処刑をしています。ギブオンはイスラエルの人々からすれば、小さなグループに見えていたかもしれませんが、神の名によって交わされた契約がどれほどのものかを知り神と出会う機会となったでしょう。そして、ダビデとイスラエルは、尊い命を失いますが真に仕えるべき神がおられることを改めて知るとともに、飢饉から解放されていきます。
「神のみ名が聖とされますように。」イスラエルの人々だけでなく、ギブオンの人々に対しても示されています。私たちは、主イエスご自身が命をかけて神の救いの計画を示してくださったことによって、父なる神の愛と恵みが注がれていることを知り、神に向き合ってきました。心から「み名を聖とします」と祈ります。また、「聖とされますように」とは、わたしたちだけでなく、神様を知らないかった人たちも同様に祈ることができますようにという願いでもあります。私たちが、神様を知った時、自分自身の罪やつまずき、失敗、置かれたところによって、心の中に後悔や反省、不審や不満などもいだきます。同時に、ゆるされていること解放されていることを知り、神によって喜ぶと共に、神への感謝をあらわします。
ルカによる福音書に記されている放蕩息子のお話がまさにそうです。放蕩息子は、多くの資産を受け継ぎながら自分が失敗するなどとは考えられなかったでしょう。しかし、失敗したことを受け入れたとき、帰るべき場所を思い起こし、失った資産よりも大きな父の愛と憐みを受けていくことができました。真に幸いなことでした。
「み名が聖とされますように。」すべての人が祈ることができる言葉です。神と共にある意味を豊かに考えさせてくれる祈りの言葉です。