【説教音声ファイル】
2021年10月3日説教要旨(召天者記念礼拝)
聖書箇所 ヨハネ11:21―27
よみがえりの希望
瀬戸 毅義
死とは万人平等にやってくるものでそれを免れるひとはどこにもいません。私は仏教の家に生まれました。郷里の金沢では、火葬されたお骨がお寺に戻ってくるとき、蓮如の御文(おふみ)の白骨の章を読むことが多いようです。皆さんもお聞きになられたことがあるでしょう。以下はその一部です。
人の死とは、私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、遅れて死ぬ人、先立って死ぬ人は、草木の根元に雫(しずく)が滴(したた)るよりも、葉先の露が散るよりも数多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕暮れには白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、たちどころに眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまいます。桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、すべての親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできません。
(ウイキペディア <御文 白骨の章を参考>)
蓮如の御文には仏教の無常感があふれています。
しかし聖書の述べることは全く違います。今朝の聖句はラザロの復活のところです。科学万能の人には到底信じ得ない出来事が記されています。キリスト教は身体のよみがえりを信じる大胆な宗教です。イエスを神の子と信じるが故に彼の奇跡を信じるのです。
「よみがえり」とは死が克服されたあかしです。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とあります。罪がなかったイエス様には、死は最後ではありません。イエス様は死に勝って甦られました。イエスが命であるというのは、ただ空漠たる思想ではありません。イエス様は死を克服する命そのものです。イエス様を信じるわたしたちもその命をいただきよみがえることができるのです。何と驚くべき聖書の言葉ではありませんか。
復活、再臨のことなどは作り話のように見えて実感がわかないのではないでしょうか。
けれどもそういうことが実際にあればどんなにうれしいことでしょうか。もう一度、亡き父に会いたい。娘にあいたい、息子に会いたい、妻にあいたい・・・こういうことは難しく宗教などと言わなくても、だれでも心におもうことです。しかし夢、幻ではなく実際にあると教えてくれるのが聖書であります。
ある高名なキリスト教の先生が、復活を以下のように解説しておられます。
復活・・・それはこの世界の「歴史的な」(ヒストリカル)なできごとではないこと、すなわち「幻」の類において感知された出来事だった。このような考えには、信仰の喜びもなぐさめもないのではないでしょうか。
内村鑑三は復活を信じました。彼はキリスト者であり同時に頭脳明晰な理学士でもありました。私は次のような内村の文章を読むといつも感動します。
この地球がいまだ他の惑星(わくせい)のように星雲(せいうん)としてあった時、または凝結(ぎょうけつ)が少(すこ)し度を進めて一つの溶けた塊であった時、これが億(おく)万(まん)年(ねん)もたって、シャロンの薔薇(しょうび)を生じ、レバノンの常盤樹(ときわぎ)を繁茂(はんも)させる神の楽園とならんとは、誰(たれ)か量(はか)り知ることができただろうか。最初の博物学者は、蛅蟖(けむし)が変じて蛹(まゆ)となったときは、生(せい)虫(ちゅう)が死んだと思ったことでしょう。後になって、美しい羽根を翻(ひるがえ)して日光(にっこう)に逍遥(しょうよう)する蛾(ちょう)は、かつて地上(ちじょう)に匍匐(ほふく)していた見(み)悪(に)いものだったとは、信ずることは難しかったでしょう。
(現代文、以下原文)
然(しか)り、余は信ず、余の救い主は死より復活(ふっかつ)したまいしを。義人(ぎじん)を殺してその人死せりと信ぜし猶(ユ)太人(ダヤびと)の浅(あさ)はかさよ。なんぞヒマラヤ山を敲(たた)いて山(やま)崩(くず)れしと信ぜざる。余が愛するものは死せざりしなり。自然(しぜん)は自己の造化(ぞうか)を捨てず。神は己(おのれ)の造りしものを軽(かろ)んずべけんや。彼(かれ)の身体(からだ)は朽(く)ちしならん。彼の死体を包みし麻(あさ)の衣(ころも)は土(つち)と化(か)せしならん。されども彼の心(こころ)、彼の愛(あい)、彼の勇(ゆう)、彼の節(せつ)―ああ、もしこれらも肉と共に消ゆるならば、万有(ばんゆう)はわれらに誤謬(ごびゅう)を説き、聖人(せいじん)は世(よ)を欺(あざむ)けり。余は如何(いか)にして、如何(いか)なる体(たい)をもって、いかなる処(ところ)に、再(ふたた)び彼を見るやを知らず。唯(ただ)
”Love does dream, Faith does trust
Somehow, somewhere meet we must”
―ホイッティア(Whittier米国の詩人<1807-92>)。愛の夢想をわれ疑わず、何としても何処(どこ)かで相(あい)会(あ)うべし
(内村鑑三「キリスト信徒のなぐさめ」第1章)
パウロは伝道中に、迫害され馬鹿にされました。それは「キリストが死人の中から最初によみがえった」と公然と宣べたからです。復活を哲学的な一つの理論として宣べれば誹謗中傷は受けなかったでしょう。使徒言行録を引きます。
「すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです。パウロがこのように弁明をしていると、フェストは大声で言った、『パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている』」。
(行伝26:23-24)
わたしたちは不完全でありますが、神は完全なものへと完成してくださるのです。
そして救いを完成してくださるのです。復活、再臨を理解せずしてキリスト教の尊さはわかりません。
聖書の言葉を読ませていただきます。
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
(コリント第1 15:42—44)。
イエス・キリストの父なる、慰めと希望の御神さま。
私たちは、今日、先にみもとに召されました兄弟姉妹方を記念し、地上に住まわれた日々のことを偲び、また遺族近親の方々に、主のおん慰めを祈り求めるためにこの所に集まりました。兄弟姉妹方が世にあったとき、主を信じみ救いに導き入れられたこと、また主の栄光にあずかりいのちの冠を授けられたことを感謝いたします。
どうかみことばによって私たちに主のみ心を悟らせ、主の約束によって慰めと力とを豊かにお与えください。私たちもこの信仰の先達にならって、心を熱くして主に仕えるものとならせてください。
救い主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン。