ユダヤの人々は、自分たちと異なった信仰を持っている人たちや罪人と呼ばれる人たちを見下し差別していました。ツロやシドンの町は、そのような人々の住む町であり、そこに汚れた霊に取り付かれ苦しみもがいている娘を抱えている一人の女性がいました。イエス様の一行が自分たちの町に来られたことを知ったこの女性は、大切な娘を救うために、すぐにイエスさまのもとにやって来ました。そして、イエスさまの足もとにひれ伏しました。この女性は、恥も外聞もかなぐり捨てて、わが子を救ってくださいと、切に願いました。主にどうしても救っていただかなければならない、他に手立てはないのです。女性は一生懸命願い、祈り、ひれ伏しています。私たちはその女性の一途な信仰を見て、イエスさまは直ぐに癒しの御手を伸ばしてくれるに違いない、と思います。しかし、イエスさまはそうはされなかったのです。私たちは、このことに釈然としない不可解さを覚えます。
「イエスは女に言われた、『まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのは、よろしくない。』」(27節)。この主のお言葉は、とても難解です。イエスさまは明らかにこの女性を退けられています。ここで言われている「子供たち」はユダヤ人のことです。パリサイ派や律法学者たちを含めて、ユダヤ人たちは神さまの子供であるから、まずこの子供たちにパンを与える。そのパンを子犬にやってはいけない。この子犬はここに出てきている女性であり、異邦人を指しています。イエスさまは結局ユダヤ人だけしか救わないメシアなのか、異邦人の女性が真剣に願い出ているのに、その願いを退けられるのか、どうしてこの女性の苦しみに寄り添われないのか。私たちは、この女性に対するイエスさまの言葉に戸惑うのです。
なぜイエスさまがユダヤ人の血筋の中に生まれ、ユダヤ人の父と母とに育てられたのか。それは神の救いは、まずユダヤ人に神の救いをもたらすために神の御子がユダヤ人としてお生まれになった。その事実を、この女性に、イエス様は伝えておられます。それが、まず始めであった。ということは、そのあとに続きがあるということです。まずから始まって救いはさらに広がっていくのです。
そして、イエスさまはこの女性のことを「犬」とは呼ばれなかった。「子犬」と呼んでおられます。決してユダヤ人のようにこの女性を軽蔑していないことを意味しています。イエスさまは「まず」と言われ、「子犬」と、この女性のことを呼んでおられる。女性は、そこに一筋の救いの光を見出したのです。この女性は、まるで食らいつくようにして救いを求めています。それは大胆な戦いと言ってもよいかもしれません。なぜならば、それはイエスさまの言葉を翻そうとしているからです。必死に救いを引き寄せようとする戦いの姿がそこにあります。
ここでイエスさまは、「それほど言うならば」とおっしゃられたのです。これは、この女性がそう言わせたという意味で、信仰の戦いを勝ち取ったのです。救いを得ることができた。それは祈ることにおいて、この人が諦めなかったということです。
2014.5.18 岩橋隆二牧師 説教要旨